2-11

 窓の外の景色はすっかりと秋の匂いを漂わせていた。

「哀君、悪いんじゃが、毛利君のところにおつかいに行ってくれんかの」

 博士と再会してから一ヵ月が経っていた。あれから仕事が早く終わった日や予定のない休日は、阿笠邸で過ごす事が多くなった。秋晴れの午後、博士と一緒に昔から変わらないダイニングテーブルで昼食を摂った後、博士が哀に茶封筒を渡してきた。
 懐かしい名前を聞いて心臓にぞわりと血流が舞い込んだ。

「おつかい?」
「毛利君が調査で使うという資料を探しとってな。ようやく見つけたからすぐに渡したいんじゃが、ワシはこれから出かけないといけないんじゃ…」

 申し訳なさそうに眉を八の字にしている博士の頼みを無下にする事などできるわけがなく、哀はその茶封筒を手に取った。ずっしりと質量を感じる。
 こう言ってしまえば失礼だが、十年以上も前それこそコナンの力で有名になった一時的な名探偵が今でも熱心に探偵業を行っている事を意外に思った。そして、博士以外に唯一イギリスに行く事を伝えた毛利蘭の事を思い出す。最後に会ったのは七年前だ。ということは、あの時赤ん坊だった桜も、もう幼少期に入っているはずだ。

 毛利探偵事務所までの道のりはとても懐かしかった。狭い歩道は相変わらずで、商店の多いこの地区の道路整備はなかなか進む事もないのだろう。だけど変わらない景色は、歩く足を軽くさせた。
 東京に帰り、それを歩美にメールで伝えたものの、お互いの都合がつかず、まだ彼女には会っていなかった。どこかで恐れているのかもしれなかった。見知らぬ土地で会う事と、思い出の多いこの場所で会う事は、意味合いが全く異なる。
 それでも、さまざまな出来事に迷走しても、歩道に立ち並ぶ街路樹は変わらない。今年も冬が近づくにつれて、色を変えていくのだろう。



 古びたビルの一階、喫茶店ポアロ。懐かしさを覚えながらビルを見上げる。二階には毛利探偵事務所と印刷された窓ガラスがあの頃のまま存在を主張している。横の階段を一段ごと上るたび、どくりと心臓が鳴った。
 大丈夫だと自分に言い聞かせる。毛利小五郎は確かに昔からの知り合いに部類される人間だが、そして中学時代の自分達を知っているが、それでも。
 薄暗い階段を二階まで登り、アルミのドアノブを震える手の平で回す。ひんやりとした感触に心臓が震えた。不完全に回ったノブはそのまま、哀の受け入れを拒否する。つまり、鍵がかかっていた。仕事で外に出ているのだろうか。階段横のポストに入れておいても問題ないかもしれない。ほっと息をついてしまったのは、安心してしまったからだ。登って来た階段を降り、少しかがんで壁に設置されたポストの表札を確認している時。

「哀ちゃん?」

 つい先ほど思い出していた黒髪の彼女が、少女と手を繋いだままビルの前に立ち、哀を見つめていた。

「……蘭さん」

 秋の風が彼女の長い髪を揺らす。視線をずらすと、手を繋がれた少女の大きな瞳と目が合った。蘭とそっくりな目、だけど口元はあまり似ていない。その少女が誰かもすぐに分かった。

「哀ちゃんだよね? びっくりした…、いつ日本に帰って来ていたの?」
「…………」

 びっくりしたは哀も同じだった。驚愕で言葉を出せない哀に対し、蘭は悟ったように笑い、哀の手元の封筒を見た。

「もしかしたら父に用事だった?」
「…え、ええ。そうなの博士から頼まれたんだけど留守みたいで」

 息継ぎも忘れて思わず早口で答えると、蘭は少し考える仕草をした後、

「私、事務所の鍵も持っているから置いておこうか。あと、もし時間があったら上でお茶飲んでいかない?」

 笑顔で誘われ、中学一年生の春を思い出した。久しぶりの再会の日も、こうして蘭に声をかけれられたのだった。



 毛利家に入るのも久しぶりだ。そもそもここはコナンの住居であり、少年探偵団達はよく遊びに来ていたようだったが、哀はできるだけ遠ざけていた。まだ片思いだった頃。蘭がコナンの想いの先だった。
 リビングに通され、テレビの近く絨毯に座った。蘭が立つキッチンからコーヒーの香りが漂った。この家にもコーヒーがあったのかとこの場にそぐわない事を考える。蘭の傍ではコーヒーを飲めねーんだと愚痴を漏らしたコナンを思い出すが、あの頃の自分達は肉体的に子供だった。
 キッチンからピンク色のリボンでポニーテールを作った少女が顔を覗かせる。

「…こんにちは」

 子供とどう向き合えばいいのか分からないが、とりあえず控えめに挨拶をしてみると、人見知っているのか彼女はなかなか出てこようとせず、ただ哀をじっと見つめた。

「おねえちゃん、おなまえは?」
「哀よ。灰原哀」
「あいちゃん…?」
「そう。あなたは…桜ちゃんね?」

 自分の名前が知られている事に安心したのか、桜がそっとキッチンから出てきた。

「あいちゃんは何年生? 桜は一年生なんだけど」

 案外達者な日本語を使う桜に、哀は思わず笑った。

「何年生でもないわ」
「ふーん?」

 桜が哀の横にちょこんと座る。黒いフレアスカートは、きっと蘭が選んで買ったものだろう。ほんの六年前は首も座っていない赤ん坊だったのに、子供の成長で時間の流れを感じるなんて昔の自分には考えられない事だった。

「哀ちゃん、お待たせ」

 蘭がコーヒーの入ったマグカップを哀の前に置いた。その横で「桜も!」と声をあげた桜に、「あなたはさっき買ったオレンジジュースね」とイラスト付きのプラスチックのコップに500mlのペットボトルからジュースを注ぐ。

「それにしてもびっくりしたわ。私も用があって実家に来たんだけど、哀ちゃんがポストを覗いているんだもの」
「日本には、一昨年の冬に帰ったの。あっちで大学を卒業して…、しばらく別の場所で働いたんだけど、一ヵ月前に東京に異動になって…」

 先ほどよりも心拍数が安定したようだった。落ち着いて話す哀に、蘭はゆっくりと相槌を打ちながら聞いていた。蘭も懐かしそうに目を細めてコーヒーを飲みながら、時折桜の話相手をしながら、哀に近況を語った。平日の昼間には桜を保育園に預け、蘭自身も産休に入る前の会社で働いているとの事だった。

「あの…、哀ちゃんに言うべきか迷ったんだけど、私ね…」

 マグカップをテーブルに置いて、沈黙を破るようにして蘭が言い始めたのと同時に、玄関からガチャリと鍵とドアの開いた音が聞こえた。蘭が会話を止めて、玄関の方に視線を向ける。

「…お父さんかしら」

 そう言って立ち上がった時、リビングのドアが開けられた。その影に、哀は今度こそ目を見開いた。途端に心拍数が早くなり、今すぐにでもこの場所から逃げ出したかった。

「あら、コナン君?」

 テレビや雑誌で見たよりも少々やつれた彼が、そこに立っていた。蘭の声も届いていない様子で、哀を見て眉をしかめた。哀、とその唇が動いたのを、確かに哀は見た。