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 東京にある会社への出向を告げられた時、哀は必死になって抵抗した。これまで文句の一つ言わずに働いていた哀に対して上司は非常に驚いていたようだが、簡単に辞令が覆るような事があるわけはなく。
 一緒に働いていた花野は哀が再び東京に住む事を羨ましがり、送別のプレゼントを哀に渡しながら、

「灰原さんは東京には待っている人がいないって言うけれど、そんなことはないと思います」

 送別会のあいだじゅう泣いていた目を真っ赤にして、そう言った。可愛らしい包装を受け取る時にふいに触れた小さな手の先はひんやりと冷たく、たった一年半の間でもこの職場で必要とされていた事を哀は嬉しく思った。離れたくないという気持ちは、十五歳の頃と似ているようで全く異なるけれども。



 ゴロゴロとキャリーケースを引きずりながら東京駅に降り立ち、哀は途方に暮れる。社宅は準備されているし、勤務条件もよい。プレゼントの品は、人気ブランドの部屋着だった。きっと選んでくれたのは花野だろう。地下鉄に乗り継ぎ、社宅へと向かう。駅構内も、公道も、人の多さに目が回りそうだった。同じ空の下でもこうも空気が違うものなのか。イギリスと日本の片田舎での暮らしに慣れてしまった哀は、車窓の外を眺めてはため息をつく。
 東京の社宅はこれまで住んでいた寮よりも築年数が古かったが、キッチンが広かった。生活必需品は最低限揃っていて、今夜から早速生活できそうだ。簡単に手続きをした後、久しぶりに阿笠博士に会いに行こうと思い立った。
 日本に帰って来てからも一度も博士には会っていない。こんな自分を、今でも博士は娘だと言ってくれるのだろうか。会いに行けなかった理由は、いくつも絡み合って、根元を取り除けない。
 隣に位置する古びた洋館を思い浮かべる。一番会ってはならない人に遭遇する事を恐れたが、雑誌などの情報によると探偵である江戸川コナンは米花駅と同じ沿線に探偵事務所を構えている。女性と噂になる時は、都心にあるタワーマンションの出入りが目撃されていて、すでに米花町の家には住んでいないようだった。そこまで調べてしまった自分を、哀は呆れた。時々女性向け雑誌でとりあげられる彼を追いかけるミーハーなファンのようだ。
 米花駅前は、五年前とはずいぶん変わっていた。時々少年探偵団に付き合った駅近くのゲーセンは姿を消し、女性向けの美容エステの看板がでかでかと存在をアピールしていた。煙草屋も姿を消し、金券ショップに変わっている。だけど街の匂いは同じだ。心臓よりも更に深い部分がきゅっと痛んだ。イギリスで買った皮鞄を手に持ちながら、見知った歩道を歩く。部分的に舗装された道路はいびつで、逆に人間の暮らす場所だと感じさせられる。
 できるだけ周りの景色を見ないようにしながら、阿笠邸のチャイムを押した。

「哀君、久しぶりじゃな」

 久しぶりに会った博士は、ずいぶんと小さくなったように思った。皺の数も増えた。心なしか腰も曲がったかもしれない。

「博士…」

 博士のその様子に、哀はその場に崩れるようにして泣いた。
 疑っていたなんて馬鹿だった。日本に帰って来て一年半、いつだって会える距離にいたのに、東京に来る事のできなかった自分自身に対して、情けなくて悔しくて、流した涙は玄関先のアスファルトを濡らす。
 一人になることで完全な人間になれる気がしていた。だけどそれは勘違いだったのだと知る。

「ごめんなさい……」

 本当は哀だって博士を父親のように慕っていたし、大事に思っていた。道を踏み間違えたのはいつだっただろう。自分が最大の過ちを犯してしまったんだと思った。弱さに流されず、せめて博士の傍で同じ時間を刻むべきだった。
 博士を大切にしたいのに、苦しい。付随して来る思い出が胸を鋭く突き刺す。それでももう逃げたくなかった。
 足元に落とした皮鞄もそのままに泣き続けていると、博士が自身の腰を気遣いながら哀の傍にしゃがみ込み、哀の背中に手を置いた。優しさを語るような大きな手のひらの温度を感じる。自分の故郷はここだった事に、やっと気付けた。