担任の言葉に、コナンは哀を一瞥した後、ゆっくりと担任を向いた。
「確かに僕達は付き合っているけれど、いきなり何ですか? 突拍子もない噂だと思いますけれど」
「しかしなぁ。おまえ達が一緒にスーパーで買い物しているとか、灰原が江戸川が住んでいる工藤さんの家に帰って行っているとか、前から噂があるんだよ。煙の立たないところに…って言うだろう?」
ワイシャツの上にジャージを羽織った担任が腕を組み、わざとらしく嘆息する。ジャージから除くネクタイの柄は趣味が悪いように見えて、こんな大人にはなりたくないと本物の中学生みたいな事を思った。じゃあ、自分は一体どんな大人になりたいというのだろうか。
「そんなの、灰原は俺の隣の阿笠博士の家に住んでいて、灰原が飯を作ってるんだ。付き合っている俺が一緒にスーパーについていって問題ないでしょ? 制服デートですよ」
コナンもズボンのポケットの中で拳を握りながら、動揺を隠して担任を正面から見据えるように言い放つ。手の平に汗が滲む。
「しかし、灰原が工藤邸に帰って行ったり、朝も江戸川と一緒に出て来るって言うじゃないか」
「だから灰原は隣に住んでいるんだってば。それの見間違いじゃないですか?」
堂々巡りにうんざりしながら、コナンはシラを切り続ける。証拠がないから教師もそれ以上強気には出られないのだろう。それを指摘したいところだが、今後写真でも取られたら厄介だ。
馬鹿馬鹿しいと思う。でも確かに中学生の男女が一緒に暮らしているとなると、学校としてはスキャンダルで、PTAや世間に知られる前に止めたい理由もあるだろう。どうするべきか、とコナンがこの場の切り抜け方を考えた時。
「江戸川君も灰原さんも、普通のご家庭じゃないんだもの」
灰原の担任である女性教諭がぽつりとつぶやいた。部屋の隅で哀が息を飲んだのが聞こえ、コナンも眉に皺を寄せる。
「どういう事ですか?」
「江戸川君はあの工藤さんの家で一人暮らしでしょう。中学生で一人暮らしって、普通じゃないわ。灰原さんだって遠縁のご親戚の家で、身の回りの事は自分でやるしかない環境で、二人ともまだ子供なのに、可哀想だわ」
淡い色のスーツを身につけた若い教師から発する言葉に、コナンは唇を噛み締める。様々な感情が腹の底から沸き上がり、どんな反論をしたらいいのか分からない。――可哀想? 多くの人に支えられながら何の怯えのない生活を、哀との暮らしを、幸せだと思ってた。そんな自分達に向けられた言葉は、一体何だ?
「――何が駄目なの」
突然、これまで部屋の片隅の椅子に座って小さくなっていた哀が、震えながら声を出した。
「好きな人と一緒に暮らして、何が駄目だというの」
震えながらも意思を持った低い声に、教師たちが一瞬怯んだのが分かった。これでも世界を震撼させた組織に身を置いた事のある女だ。彼女の怒りはコナンのもの以上で、静かに燃え上がるような気配を感じたコナンは危険を察知して哀に駆け寄った。
「灰原…」
「先生の言う通りだわ。私は普通じゃない。普通の家族なんて分からない。両親の傍で暮らす事も叶わなくて、お姉ちゃんも…もういなくて、私は一人だわ。でも私には江戸川君がいるの。人を不幸みたいに言わないで!」
叫ぶような哀の声に、教師二人が眉を潜めてじっと哀を見つめ、やがてコナンの担任が再びため息をついた。
「とにかく、今度阿笠さんと、江戸川のご両親に来てもらおう」
担任の言葉に、哀はまたうつむいた。そんな哀の小さな背中に手を置き、コナンは担任を睨む。でも自分の姿はただのいきがった中学生で、大人の力に子供は逆らえないのだと身をもって知っていた。江戸川コナンとしての人生が始まった瞬間から、知っていた。
そのまま教師二人に、今日は帰るように促され、コナンは座り込んだままの哀をどうにか立たせ、部屋を出た。どのくらいの時間が流れていてのか、廊下は妙に寒く、静かだった。部活中の生徒達の声は、もう自分の耳には届かない。
挨拶もせずに、哀の手を握りしめて歩く。
正門から外に出て、無言のままいつもの通学路を辿る。哀の担任の言葉が脳裏を巡る。夕方五時にもなると空は暗く、澄んだ空気の中で外灯が滲んで見えた。
「哀」
工藤邸の鍵を開けて、ドアの中へと入り、コナンはようやく哀の顔を覗きこんだ。哀は泣いていた。その涙を拭うように、コナンはしゃがみ込んで、小さな子供をあやすように哀に話す。
「大丈夫だよ」
絶対にこの生活を壊させやしない。
本当は哀にも上手に嘘をついて欲しかった。嘘をついて、同棲なんかしていないって笑い飛ばして、この呼び出しをなかったことにして欲しかったのも事実だ。
だけど、コナンだって本当は嘘をつくことは好きじゃない。それは哀もきっと同じだった。嘘で塗り固められた人生の中ではせめて新たな嘘を作る事はやめようと、いつか二人で話した。偽りの正体を除いて、コナンは昔からの知り合いには隠し事をしないようにしていた。哀との付き合いについて少年探偵団の三人に打ち明けたし、工藤邸で一人暮らしをしたい理由も阿笠博士や小五郎に正直に話した。
だから、哀を責めることはできないし、そんな彼女を愛しいと思う。
「俺がおまえを守るから」
この家はシェルターだ。コナンと同じように、哀にとってもこの家が、自分の隣が、安息の場所になればいいと思った。コナンがしゃがんだまま哀を見上げると、哀は再び熱い涙を流しながら、コナンに縋るように抱きついてきた。その小さな身体を隙間のないように抱きしめ返す。玄関のドアから入って来る隙間風も気にならないくらいに、傷だらけの世界から彼女を守るように。