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 事件が解決したところでこのレストランの営業停止は余儀なくされるだろう。パトカーの遠ざかる音とともに煙草の匂いが鼻をかすめた。ニコチンの香りはあまり好きではないが、小五郎の煙草の匂いは懐かしくてそんなに嫌ではないと思う。

「おまえ、今もあの子と一緒に住んでるのか?」
「あの子って、灰原の事? そうだけど」
「ちゃんと大事にしろよ」

 小五郎が煙草をポケット灰皿に戻すのを眺めながら、コナンはうなずく。

「大事にしているつもりだよ、これでも」

 それをできなかった過去がある。誰よりも大切に思っていた人を何度も傷つけて、遠ざけてしまった事も。
 冷たいアスファルトに視線を落としたコナンの頭を、小五郎がポンと叩き、背を向けて歩いていった。片手を挙げた合図は、「じゃーな」といったところだろうか。
 コナンを工藤新一だと知っていて、それでも一緒に暮らした時間を無下にはせず、時々本当の息子のように接してくれる小五郎の優しさには、少し戸惑う。でもそれもそんなに嫌いじゃない。乱れた髪の毛を直しながら、コナンもレストランを後にした。スマートフォンには哀からメールが入っていた。



 哀も友人と別れ、帰りにスーパーに寄って帰るとの事だった。お互い米花駅に着く時間が重なりそうなので、一緒に帰ろうとコナンが提案し、米花駅に着くと既に哀が改札口前に立っていた。

「灰原! 悪い、待たせた」

 ニットワンピースにトレンチコートを羽織った哀は、中学生よりも大人っぽく見える。彼女はコナンに気付くと、首を横に振った。
 いつものスーパーに向かい、カゴを持つのはコナンの役目だ。

「何か食べたいものはある?」
「寒いから鍋。鍋にしよーぜ」

 冷えた手が体温を求める。カゴを持っていたい方の手を哀に差し出すと、困ったような顔をしながらも哀はその手を握った。コナンの提案により、今夜の献立が簡単に決まった。
 二人で食材を選びながらカゴに入れて行く。そういえば出会った頃の哀は日本で言う冬の風物詩でもある鍋料理を知らなかった事を思い出した。特殊な場所で軟禁状態のまま育った彼女に、外の景色を見せたいと思ったのはいつだっただろうか。
 祝日なのに一人で制服を着ている自分を奇妙に思いながら、コナンはずっと哀の手を握ったままスーパーの中を歩いた。休日のスーパーの中は、平日夕方とは光景が変わる。ところどころで家族がコナン達のように今夜の献立を考えたり、子供がお菓子を欲しがったり、偶然会ったのか母親同士が話題に花を咲かせた横で父親と子供が退屈そうに持て余したり、そこにはコナンが関与しなかった場面が繰り広げられている。まるでホームドラマのようだ。

「江戸川君、どうしたの?」

 コナンの手を握る哀の華奢な手に力が入った事に気付き、コナンは曖昧に笑った。早く家に帰りたかった。哀とたった二人だけの空間に、身を溶かしたかった。



 今年は暖冬だとテレビのニュースは言うけれど、教室の外ではそうは思えないほど冷たい風が吹き荒れている。日が落ちるのが早いこの季節は憂鬱な気分になりやすい。なるほど、季節鬱という症状が存在するのも納得ができる。

「江戸川ぁ」

 コナンの後ろの席で、岡田が情けない声を出し、コナンは呆れながら振り返る。

「…何だよ」
「俺さー、どうしても帝丹高校に行きたいんだよなぁ…」

 教科書を眺めながら、岡田が深くため息をついた。短い黒髪に凛々しい眉、はっきりとした顔立ちは、女子だけではなく、嫌みのない性格のせいか男子にも人気がある。クラスの人気者の疲れ切った姿に、コナンは苦笑した。

「この前の模試はよかったって言ってたじゃねーか。頑張れよ」
「よかったっつてもさー。江戸川も帝丹だろ? 太刀打ちできねーよ」

 太刀打ちなんてそんな。コナンは言葉を飲み込む。岡田は帝丹高校の後の将来も考えている。どの大学に行ってどんな学部で何を勉強したいか、きちんと言葉にする。自分なんかよりもずっと立派だと思った。
 一度目の思春期を過ごしていた頃は、探偵になりたいと思っていた。今もその気持ちは消えない。事件が起これば放っておけないし、ホームズを愛する心も変わらない。だけど、一度目を追うだけの人生はごめんだった。それでは何のためにこの名前の道を選んだのか分からない。

「江戸川ー」

 岡田との会話の続きに困っていると、他のクラスメイトがコナンを呼ぶ。

「何?」
「担任が呼んでる。進路指導室に来いってさ」

 クラスメイトからの伝言に首をかしげながら、コナンは岡田に挨拶をしてから教室を出た。放課後の廊下は独特な空気を持つ。中学三年生の十一月。十年前も同じ空気の中を歩いていたのだろうか。廊下の窓から見えるサッカー部の試合も、音楽室から聞こえる合唱部の歌声も、現実味を帯びない。
 進路指導室のドアを開けると、そこには担任が立っていた。そしてもう一人の教師と、部屋の隅のパイプ椅子に座っている女子生徒――。

「灰原?」

 椅子には哀が小さくなって座っていた。もう一人の教師は哀の担任だ。

「…失礼します」

 順番を間違えた挨拶に担任は苦笑しながら、さて、と前置きをし、コナンと哀を見比べた。

「忙しい時に悪いね。事実確認をさせてもらいたいんだ」

 コナンの担任である男性教諭の横で、哀の担任である若い女性教諭が困ったように眉を潜めた。でも何も言わないままコナンの担任を見ている。狭い進路指導室は空気が薄く感じる。息を潜めるように担任の言葉を待っていると、

「君達が同棲しているっていうのは、本当かい?」

 担任からの思わぬ言葉に、コナンは一瞬言葉を失った。椅子の上で哀が肩を震わせたのが分かった。