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 模試の結果はもちろん良好で、問題なかった。
 受験生といえど学校のイベント行事にも参加しながら月日は流れ、秋という季節も終わりに入った十一月半ばの祝日の朝。二階の寝室のベッドの上で窓から差し込む光を感じ、コナンは目をこすりながらゆっくりと起き上がった。冷たい空気が肩に触れ、思わず布団を被り直す。
 隣にはもう哀はいなかった。寒いのはそのせいか、とひとりごちながら、名残惜しいながらも布団から出て、一階へと降りた。

「おはよう、江戸川君」

 リビングでは哀が朝の情報番組をつけながら新聞を読み、コーヒーを飲んでいた。

「おはよ…」

 時間はもうすぐ十時を指そうとしている。今に始まった事ではないが、寝すぎたなと後悔する。もっと言えば哀の寝顔を眺められなかった事が悔まれる。

「朝ごはん食べる?」
「うーん……」

 煮え切らない返事をしながら、コナンは哀の隣に座った。今日は祝日だけど、テレビでは平日と同じ番組が流れている。政治経済のニュースではなくて芸能ニュースで、それに対してあまり興味を持たないコナンは哀の肩に頭をもたれるようにし、寒さをしのぐようにその体温を意識する。
 テレビではスタジオである女性歌手が紹介され、そしてイントロが流れ出し、彼女は歌い出した。その風貌は黒髪で清楚な白いワンピースがよく似合う。しかし華奢な印象とは打って変わり、パワフルに伸びのある歌声がスピーカーを通して伝わってきた。

「あ、この曲……」

 哀が新聞から視線をあげる。

「何? 知ってる曲?」
「ええ、歩美が最近よく聞くって言ってた歌だわ。何度かウォークマンで聴かせてもらったから覚えてる」

 冬に相応しいバラード。テレビの中の彼女は澄んだ声で愛を歌う。

  もしも願いがかなうなら…
  もう一度あなたに会えるなら…

 愛する人間への想いを奏でる。ありがちな歌詞とメロディーでも、その歌声に引き込まれる気持ちは分かる気がした。

「歩美もこんな歌を聞くようになったんだなぁ…」
「なにそれ、誰目線?」

 くすくすと笑いながら哀は新聞をローテーブルの上に置き、コナンに向いた。透き通った瞳がコナンを写す。

「俺、歩美が嫁に行く時は泣くかも」

 実際そうなった時には笑えなくなるかもしれない冗談をつぶやきながら、コナンは哀の髪の毛に触れた。出会った時から彼女の髪の毛の長さは変わらない。ボブカットが好きだとコナンが言った時からずっと、哀は定期的に美容院に通って長さを保っている。
 ぼんやりとその髪の毛を弄んでいると、哀が耳触りのいい声で話し出す。

「今日、お昼から用事があるから、留守にするわ」
「分かった。歩美と遊びに行くのか?」
「…違うけれど、女友達よ」

 そう言って、哀は支度をする為にソファーから立ち上がった。体温が離れた事を紛らわすように、コナンは空腹を覚え、キッチンを覗いた。



 哀が家を出て行った後、哀が準備してくれていた朝食兼昼食をとり、ソファーに寝転がって読書をしていた時、警察から連絡が入った。都内のレストランで遺体が発見されたとの事だった。
 探偵として出向く時、コナンは制服を着て行くようにする。学ランに白いマフラーを巻き、外に出た。途中の街路樹は見事に葉を赤く染めているが、それを感嘆と眺めている時間もなく、そのままタクシーに飛び乗った。
 指定された場所には重々しい空気が流れていて、コナンは顔見知りの刑事に誘導され、その現場を見た。そして状況を聞き、いつも使用しているメモ帳にそれを書いていく。
 血液の匂いも、禍々しい空気も、本当は苦手だ。自分の中にある細胞にまで負の感情が浸食されていくようで、ひどく疲れる。それでも、真実を見つけ、しかるべき人間にはしかるべき裁きを受けて欲しい。そんな思いのまま、コナンは探偵業をこなしている。
 そのレストランでの出来事は殺人事件だった。証拠を見つけ、容疑者を定め、そして言質をとり、ようやく現場の空気が変わったように思った。

「さすがだな、ボウズ」

 聞き覚えのある声に振り返ると、そこには久しぶりに会う探偵がいた。

「小五郎のおじさん? どうしてここに? おじさんも呼び出されたの?」

 その割には今まで姿を見せていなかったし、事件について言及する事もなかった。コナンが不思議に思っていると、

「俺はたまたまここで飯を食っていただけだ。おめーと違ってわざわざ事件で呼び出されたりするかよ」

 かつて名探偵と騒がれた毛利小五郎が皮肉っぽく低い声で言った。このレストランはこの界隈では有名で、男一人で入るような場所ではない。コナンは辺りを見渡すが、小五郎と一緒にいたような人間は見当たらない。私服の時はラフな格好で仕事の時はスーツを着るはずの小五郎が、今日は綿パンにストライプの入ったシャツの上にジャケットを羽織っているのを見て、なるほどね、とコナンは納得した表情を示す。

「おじさんって本当は紳士だよね」
「何がだよ」
「英理さんと一緒に食事に来てたんでしょ? そこで事件が起こってしまったけれど、英理さんの仕事の関係もあってここに残る事もできなかったから、一度送って行ってここに戻って来た。違う?」

 コナンが小五郎に笑みを見せると、小五郎は深くため息をついた。一人娘の毛利蘭が結婚を機に家を出て行った今でも、小五郎と妻の英理が同居する話は進んでいなさそうだ。だけどこんな愛や絆の形もある。それはずいぶん前に間近で見て、コナンなりに色々と考えたものだった。
 小五郎は面白くなさそうに煙草を取り出し、それを口にくわえながら、事件の犯人がパトカーに乗って行くのを一瞥した後、コナンに振り向いた。

「有希ちゃんは元気か?」
「……有希子おばさんの事? 元気だと思うけれど、長い間会ってないからなぁ」
「おまえ、実の母親に向かってそれはねーだろうよ」
「何言ってるの? 俺の母さんは江戸川文代だよ。おじさんも会った事あるでしょ?」

 小五郎の鋭い指摘にもコナンは持ち前の演技力ですっとぼける。いつからか、小五郎はコナンがかつての高校生探偵であった事を追及してくるようになったが、証拠なんてどこにもない。コナンは真実を話すつもりもない。自分自身は他人の真実を暴いているのに、卑怯だと思う。
 それでも、自分の大切な人達には隠し通さなければならなかった。優しい人達を傷つけない為に。