大学構内にあるカフェで、ノートパソコンを目の前にため息をついた時だった。
『灰原がいた!!』
隣に置いている鞄の中で震えたスマートフォンをタップしたやいなや、スピーカーからは未だかつてないほどの慌てたコナンの声が響いた。
「……は?」
突然のコナンとの会話の始まりに、歩美はぼんやりとしていた思考を取り戻し、目の前で開いていたパソコン内のファイルをいったん保存し、閉じる。
「突然なんなの、コナン君…。哀ちゃんが、何だって?」
『だから、灰原がいたんだって』
「どこに」
『小五郎のおじさんの家…』
歩美が哀に会いに行ってから一年が経ち、歩美は大学四年生になっていた。未だに内定が決まらない焦りで、日曜日にわざわざ大学に来て、色々と調べ物をしていて、少々気が立っていたのもある。
コナンの焦りがずいぶんと遠いものに思えて、歩美は生返事をして再びファイルを開いた。
「何か話したの?」
『いや…、俺、おじさんの上着を取りに家に行っただけだし、蘭と桜とちょっと喋っただけで、特に…』
「ふーん……」
無理やり糸を繋げるようなコナンの話し方はしどろもどろで、今でもコナンが落ち着いていない事が手に取るように分かった。通話の向こう側でエンジン音と、時折ウインカー音が聞こえる。コナンは小五郎と事件現場にでも向かっているのだろうか。
『歩美、おまえ、灰原が東京に戻っていた事知ってただろ?』
「そりゃ、知ってたけれど。そんな事わざわざコナン君に言えるわけないじゃん」
去年の夏、哀から博士へと電話があった時、コナンはそれに気付いていながらも何も言わなかった。コナンの口から哀の名前を聞いたのは、それこそ中学校の頃以来で、面食らっているのは歩美も同じなのだ。
『とりあえず、俺これから現場に行かなきゃいけないし、後でまた連絡していいかな』
彼らしくもない殊勝な訊ね方に、歩美は苦笑しながら、いいよ、と答えた。コナンが他の誰でもなく、歩美に連絡をくれた事が嬉しかった。
お気に入りのひざ丈のプリーツスカートの裾を揺らしながら、買ったばかりのサンダルでアスファルトの上を歩く。指定された時間に大学の最寄り駅に行くと、運転席に座ったコナンが助手席の窓を開けて顔を覗かせた。
「お疲れ様、歩美ちゃん」
仰々しさを表したわざとらしい殊勝なコナンの態度に、歩美は嘆息して助手席のドアを開ける。
「あーあ。こうやってまたパパラッチに写真を撮られるんだわ」
「意識過剰だよ。週刊誌だって俺ばかりを追いかけられるほど暇じゃねーって」
笑いながらハンドルを切るコナンは、少々疲れているようだった。毛利家で哀と再会してのが今日の昼間の出来事で、それを振り払うようにして仕事に没頭してきたのだろう。
何かを失った時、最も辛いのは空白の時間だ。仕事や学校といった強制された時間こそが弱った心を救う。高校生の頃のコナンがそうだったのと変わりなく、今の彼もそうなのだろうか。
夏の夕方の街中は、一年の中で一番空気が薄いように思う。季節の解放感からか、人口密度が高く感じる。信号待ちで止まった車のすぐ前の横断歩道を、海から帰って来たような若者の集団がはしゃぎながら歩いている。
「コナン君、毛利のおじさんと仕事する事、増えたよね」
「あー…、そうかもな。昔から世話になってるし、気も使わないし、楽なんだよなぁ」
「――哀ちゃんの事は、どうするの」
新車の匂いが鼻をくすぐる。ハイブリッド車であるこの車はほとんどエンジン音が響かず、なおさら沈黙が痛い。
「コナン君。…歩美も、コナン君を好きだって言ったら、どうするの」
シートベルトを握りしめるようにして歩美がつぶやくと、コナンが一瞬こちらを向いたのが分かった。
「え…?」
「ずっと、子供の頃から好きだったって言ったら、信じてくれる?」
正面を向いたコナンが眉をしかめる。気まずい空気が流れても、歩美には怖くない。どす黒い感情に溺れそうになる事に比べたら、怖い事は何もないと思った。
コナンと同じように、歩美だって知っている。喪失した時の空虚感を、誰かを想った時の持て余すほどの心臓の熱さを。
しばらく無言のまま車は走り、次の信号待ちになった時に、コナンはようやく口を開いた。
「…おまえ、高校の時、元太と付き合ってただろ。そういう冗談はよせ」
「別に、付き合う人と好きな人が一致するなんて信じられるほど、歩美は純情なつもりはないよ」
「あのなぁ…。歩美の恋愛観に興味はねーけど、俺は元太の友達だから、そういう話は聞きたくない」
信号が青に変わり、やや乱暴にアクセルを踏むコナンを見て、彼が本気で怒っている事を見て取れた。でも歩美は負けじと言葉を続ける。
「それを言うなら、哀ちゃんだって歩美の友達だよ」
わずかなエンジン音とエアコンの風を訊きながら、この先コナンの車の助手席に座る事はないのかもしれないと歩美は予感をする。
「何が言いたい?」
コナンの中に哀はまだ生きている。恋人としての灰原哀が息づいていて、コナンがそれをひた隠しにしながら、本人さえ知らない場所で大事にしている事に気付いたのはいつだっただろう。もっと早く、哀が姿を消した直後にそれに気付けばよかった。黒い感情を知らないままでいられたらよかった。そうすれば、元太との関係をもっと変える事ができただろうか。元太が望む広い世界を、見せてあげる事も叶っただろうか。
全てが終わりを遂げて、それでもこうして歩美は昔の仲間にすがりつく。
「あのね、私、去年哀ちゃんに会いに行ったの」
「…知ってる」
「私、コナン君の友達でもあるから、色々思う事があったけど、でも、懐かしいなって思ったの」
きっと光彦や元太も同じように言ってくれるだろう。普遍的な生活にスリルをくれた新しい友人の存在は、幼かった自分達にとってヒーローのように眩しかった。
罪滅ぼしなのかもしれない。それでもその懐かしさに浸りたかった。あの頃の純粋な自分を取り戻したかった。
難しい顔をしたままのコナンを眺めながら、歩美は言う。
「ねぇ、今度久しぶりにみんなで飲みに行こうよ。哀ちゃんも誘ってさ」
ようやく米花町の見知った景色が見え、歩美の住むマンションの前で車が止まる。静かなクーラー音の中で、しばらくコナンが窓の外を見つめていた。
その視線の先には、いったい何が映っているのだろう。コナンが見える世界はどんなものなのだろう。好奇心に駆られ、それが恋になったこともあったけれど、それも昔の話だった。
コナンの事は好きだ。でも元太の事も、光彦の事も好きだ。巷で話題にのぼる男女の友情を、歩美は信じている。いろんな形があれど、歩美は彼らを大切に思う。
「…俺」
蒸し暑い空気を壊すように、静かにコナンがつぶやく。
「今でもあいつの名前を聞くと、震えてしまうくらい、怖いんだ」
停車時と同時に鳴り始めたハザードランプの音だけが、カチカチとリズムを刻む。秋の日の入りは少しずつ早くなっているが、まだ窓の外は薄暗い程度の時間で、コナンの横顔がよく見えた。
「怖いのに、会いたいって思うんだ…」
馬鹿みたいだ、と片手で前髪を崩すように顔を覆ったコナンを、歩美は黙って見つめる。それを馬鹿と呼ぶなら、きっと人間そのものが馬鹿な生き物だ。失ってもなお手に入れたいもの。人間とは強欲な生き物だから。
歩美は静かにシートベルトを外し、ドアを開ける。湿った風が頬に触れ、ようやく自分の足で地上に立てた事にほっとする。
「コナン君。歩美、元太君の事好きだったよ」
ドア越しにコナンに言うと、顔をあげたコナンがくしゃりと顔をゆがませて笑い、知っているよと答えた。
全て嘘になったらよかった。元太の事をもっと大切にできたらよかった。哀を全力で支えられるくらい強くなれたらよかった。
コナンが運転する車を見届けて、しばらく夏の風を浴びる。もうすぐ今日が終わり、また明日がやって来る。