幕間4-1



幕間4



 巷でよく見かけるクエスチョン。――男女の友情は存在するか否か?

「あれ、歩美?」

 阿笠邸のリビングの端にある白いソファーに座って、タブレットをいじっているコナンが顔をあげて目を丸くしていた。眼鏡をかけていない彼の顔は、少し新鮮だ。

「こんな時間にどうしたんだ?」

 窓の外からは蝉の音が断片なく鳴り続ける。ここ数日は全国的にこの夏一番の暑さだという。吉田歩美は室内のクーラーにほっと息をつきながら、A4サイズの書類が入っている鞄をコナンが座るソファーに置いた。

「うちのプリンタが壊れちゃったの。それで、博士のを貸してもらおうと思って」
「…こんな夜遅くに危ないよ。言ってくれれば迎えに行ったのに」

 まるで彼氏のようなその言い方に、歩美は肩をすくめる。彼の場合、無意識だから質が悪い。

「別に、まだ九時じゃん。大丈夫だよ」

 キッチンからはカフェインの香りが漂い、そうしている内に博士がコーヒーを持ってリビングに訪れた。

「歩美君、そこにあるパソコンとプリンタ、好きに使ってくれ」
「ありがとう、博士」

 歩美は博士にお礼を言い、鞄からUSBを取り出した。リビングに置かれたパソコンを起動する。なんとも言えない電子音を聞きながら、小学生の頃によくここに座っていた少女の姿を思い出した。親友だと思っていた茶髪の少女。そして歩美が好きだった男を捨てた女。忘れているはずだったのに、思い出してしまった。

「それは課題のレポートか何かか?」

 コナンの声に歩美ははっと我に返り、パソコンに繋がっているマウスに手をかけた。

「ううん。シューカツの」
「就活? もうそんな時期なのか」
「まだだけど、早い子はもうインターンに行ってて。歩美も、先生から自己分析するように言われてて、その課題を提出しなくちゃいけなくて」

 横目でコナンを盗み見ると、コナンは真剣な表情でタブレット端末に保存された資料を読んでいる。ポロシャツにデニムというラフな格好をしているということは、今日は仕事はなかったのだろうか。やっぱり格好いいな、と歩美はこの場にそぐわない事を思う。
 大学三年生の夏。未来が不透明である事がこんなに怖いものだと初めて知った。
 USBに保存されているファイルを開き、歩美はキーボードを叩く。この課題は急ぎではない。それでも阿笠邸に来た理由は、単純にコナンに会いたかったからだ。
 時々少年探偵団の四人で飲む事はあっても、その頻度は次第に減って行った。コナンは探偵業に忙しく、元太も光彦もそれぞれの生活で充実した日々を送っているようだった。まるで歩美だけが取り残されているような気分だった。
 コナンが阿笠邸に入り浸っている事については以前から知っていた。都心に事務所を構え、タワーマンションの部屋まで所有している彼は、今も米花町を離れない。それどころか、一人の時間を恐れるように、過去へとタイムトリップをする。行き先は阿笠邸、光彦との時間、そして少年探偵団での飲み会。

「コナン君は、やっぱり卒業してからも探偵を続けるの?」

 資料を印刷しながら歩美が訊ねると、コナンはタブレットの画面から顔をあげた。ぼんやりとした表情で、考えを巡らせているようだった。
 そこへ、電話のコール音が大きく鳴り響き、歩美はびくりと視線を変えた。

「博士、電話が鳴ってるよ!」

 久しぶりに携帯電話以外のコール音を聞いた歩美は、キッチンにいる博士を呼ぶ。博士はきっちんに置いてあるコードレス電話を取り、内緒話をするように背中を丸めて話し始めた。

「おお、哀君。悪いが、ちょっと今立てこんでて…」

 パソコンデスクに戻ろうとしていた歩美の鼓膜に、懐かしい固有名詞が届き、咄嗟に歩美は博士からコードレス電話を奪い取った。

「こ、こら、歩美君…!」
「もしもし! 哀ちゃん? 哀ちゃんなの!?」

 歩美の好きだった人を捨てた親友。
 それでも、この受話器の向こう側にいると分かると、いてもたってもいられない。

『……歩美?』

 出会った頃からずっと名字で呼んでいた彼女が初めて歩美と呼んでくれた日を、歩美は忘れない。歩美は受話器を持ったまま、泣き崩れた。嬉しい、憎い、羨ましい、恨めしい。さまざまな感情が交錯する中、ただ一つ胸に落ちた感情は、会いたいという一言だった。
 彼女との細い線が切れないように、歩美は灰原哀の居場所を聞き、そして連絡先も手に入れた。ほっとして通話を切ったのもつかの間、リビングからの視線を感じ、歩美は慌ててコナンを見た。
 哀は歩美にとって親友だ。それなら、コナンにとっては?

「歩美。俺、そろそろ帰ろうと思うんだけど」
「……そう」
「おまえも用が終わったなら帰れば? 送るから」

 コナンにもキッチンでの歩美の声が聞こえていたに違いないのに、それに対して何も言わないコナンの思いの深さを、改めて歩美は知った。
 パソコンを片付け、博士の礼を言ってから阿笠邸を出て、コナンの隣を歩く。昔は同じくらいの背丈だったのに、今では見上げないとコナンと目が合わない。

「歩美、飯は食った?」
「食べたけど…」

 日が沈んでも真夜中が近付いても、蝉の音はやまない。歩美の返事に、コナンは面白くなさそうに嘆息する。眼鏡をかけていない彼は、いつもよりも少しだけ幼く見えた。

「歩美がまだ食べてないなら、一緒に飲みに行こうと思ったのに」
「やだよ。コナン君と二人でご飯なんか食べに行って、また写真撮られるの、もうこりごり」
「だから、おまえの顔は知られないようにしてるだろ?」

 週刊誌のからくりを以前コナンから教わった事を思い出す。テレビで理想の人を語るような話題の名探偵が、今は歩美の隣で疲れた顔を見せている。とても不思議だ。でも、昔から決まっていた事だ。
 異質だったコナンが、歩美達の通う小学校に転校してきた日からきっと、決まっていた事だった。