それは六年前の春、コナンから毛利家を出ると伝えられた数日後の夕方だった。
珍しく立て続けに依頼が舞い込み、それをどうにか消化して上階の自宅に戻ろうとした時。
「どうしてそんな事を急に言い出すの?」
玄関のドアを開けようとした手を思わず止めた。自分の気付かない内に蘭が帰って来ていたらしい。会話の相手はもちろんあの賢すぎる少年だろう。小五郎は息を潜めるようにしてそこに立ち止まった。
「別に急じゃないよ。おじさんにはもう話している」
「だからって…、別にうちはずっといてくれて構わないのよ? どうして出て行こうなんて…」
「だって、蘭ねーちゃんは帰って来ないじゃない」
決して怒鳴り合っているわけではないが、それでも一種の剣幕を感じた。
「僕はこの家の家族じゃない」
「そんな…。私はコナン君を弟のように思っているわ」
何も知らない蘭の言葉を聞いて、小五郎は拳を握った。すぐにこのドアを開けて、自分の推理した事実をぶちまけてしまいたい。そして蘭を傷つけた男を、蘭の目の前で罵ってやりたい。だけど、できなかった。
「子供扱いしないでよ、蘭ねーちゃん」
いつもの高い声色で、でもどこか切羽詰まったようにコナンが言う。
「僕の事なんて何も知らないのに、知っているかのように言わないでよ」
「だって…、コナン君が何も話してくれないからでしょう!?」
「――灰原の事が、好きなんだ」
小五郎に対しての時と同じ言葉を、コナンはつぶやいた。
「あいつの事が好きだからあいつと暮らしたいんだ。ごめんね蘭ねーちゃん、もう傍にはいられない」
奥のドアの音が響き、室内は静まった。嫌なタイミングで帰って来てしまったなと小五郎は思うが、ここは自分の家だ。そっと玄関のドアを開けてリビングに入った。
リビングのテーブルの前には呆然と蘭が座っていて、小五郎にぼんやりと視線を向けた。コナンは一度ならず、二度も蘭を傷つけて、そして今度こそ遠ざけたのだ。
それから蘭がコナンに会ったという話は聞かない。殴り倒したいくらいに憎い男だが、それでも彼は工藤新一である事を捨て、江戸川コナンとして生きる覚悟を決めたのだと小五郎は知った。
差し込む朝日で目を覚ますのは何日ぶりだろうか。ベッドの上で身体を起こす。腰痛を自覚し、近いうちに整体に行かなければならないと考える。尾行調査の後始末もまだ残っている。
ベッドの脇に敷かれた布団はもぬけの殻だった。
「コナン?」
いつの間にか布団から出るのが辛くない季節になった。裸足で歩き、ドアを開けると、キッチンの方からいい香りが漂う。
「あ、おはよう、おじさん」
驚く事に、コナンが朝食を作っていた。結婚を機に家を出て久しい蘭が作るものより劣るものだが、それでもご飯を炊いて、味噌汁を作り、フライパンに卵を落としている。
ここ三日間は死人のように布団から出られなかったはずのコナンが、料理をしている事に驚き、小五郎は頭を掻いた。そういえば昨日はコナンの友人である元太が訪ねてきた事を思い出す。若いってすげーな、と思わずつぶやくと、コナンが振り向いた。
「何か言った?」
「いや、何も」
無垢な瞳すら眩しくて、小五郎は顔を洗うために洗面所に入った。洗面台に置かれた歯ブラシを見て、六年前の生活を懐かしく思った。煩わしい事も多かったが、一緒にいる事が当たり前だった。家族みたいだったな、と思う。
リビングに戻ると簡素な朝食が並べられていた。
「おじさん、今日も外勤になるの?」
「ああ、そうだなぁ。天気もいいしな」
テレビを付けて、当たり障りのない話をしている内に、コナンはふと箸を止めた。
「おじさん、ありがとね」
テレビではお天気お姉さんが天気予報を伝えている。東京都は快晴、日中は過ごしやすい一日となるでしょう。
「入学式まで、もう少しここにいさせてもらっていいかな?」
子供の頃とは変わらないような、首を傾けて媚を売るような仕草に、小五郎は盛大にため息をついた。
「おーおー、気が済むまでここにいろ」
「ありがとう」
きっとこの数日くらいでコナンの傷が癒えるわけがなかった。有言実行の彼は宣言通り、入学式を機に再び工藤邸で一人暮らしをするんだろうけれど、再び哀の気配を感じてはもがき苦しむのだろう。
「おじさん。俺、灰原の事が好きだったんだ」
まるで新発見をしたように、コナンが目を細めてつぶやいた。
何を今更、と小五郎は思うが、そうか、とだけ返し、コナンの頭をぽんと叩いた。季節は春を迎えたばかりだ。