幕間2-2

 江戸川コナンが毛利家を出て行ったのは、彼が小学四年生の時だった。
 その頃はもう工藤新一から娘である蘭へと連絡が来る事もなくなっていて、世間ではかの有名な高校生探偵は死んだのではないかと噂されていた。誰もが真実を語らない中、コナンはある日大きな事件に巻き込まれ、そして何事もなかったように帰ってきた。それが彼が家を出る一年前の事だ。

「おじさん、僕、これから博士の家で暮らそうと思う」

 窓から春の夜風が吹き抜ける探偵事務所三階のリビングで、テレビ相手に晩酌をしている小五郎の横でコナンが言った。突然の事で小五郎はコナンを見る。この年頃の子供の成長は早いもので、ますます工藤新一に似てきた彼に、小五郎は疑問を口にした。

「突然どうした。蘭にそれを話したのか?」
「……蘭ねーちゃんには、関係ないよ」

 膝を抱えて視線を落とすコナンに、小五郎は単純に腹を立てた。これでも彼に対して怒っているのだ。詳しい事情は知らないし不可抗力だとは思うが、それでも蘭を期待させて待たせて、結局蘭の元へ帰ってくる気配もない彼に。

「関係ないわけねーだろ。蘭はおまえの事を心配してる」
「でも、最近蘭ねーちゃん帰ってこないんだもん」

 下手に芝居じみた子供っぽい言い草に、ますますイライラが募り、小五郎はもう一本の缶ビールを開ける。テレビのバラエティ番組からはお気楽な笑い声が聞こえるが、この張りつめた空気を誤魔化すにはちょうどいいものかもしれない。
 大学二年生になる蘭はボーイフレンドができたとかできないとかで、帰りが遅くなる事も増えてきた。父親としては複雑なところだが、ホームズオタクで推理マニアで事件を愛する男を待っているよりもずっと健全に思えた。
 しばしの間沈黙が続き、番組がコマーシャルに切替わり、空気を変えるようにコナンは同じ体勢のまま口を開いた。

「…俺、灰原の事が好きなんだ」

 一人称が変わった事に小五郎は気付くが、敢えて黙っておく。
 テレビに視線を向けているコナンは、きっともっと遠くを見つめている。まっすぐで透き通った瞳は、よく知る工藤新一と変わらないと思った。

「灰原が好きで、あいつの傍にいないとって思ったんだ」

 覚悟を持った声色で、コナンはやっと小五郎を向いた。
 ああやっぱりこの目に弱いな、と小五郎は頭を掻く。一緒に暮らして三年弱。憎い男でも情は沸く。それに加えて元女優の愛らしさを受け継いだ子供の容姿に対して、いつまでも腹を立てられるわけもなく、娘の次くらいには味方になってやりたい相手だと思った。悔しいから絶対に言ってはやらないが。



 テレビの天気予報によると、あと二日はこの雨が続くらしい。各地で洪水注意報が発令されているのを片目に、小五郎は洗面所に視線を向けた。
 とりあえずびしょ濡れのコナンを連れて帰って来た。彼がこの家に入るのは、出て行ってから初めての事だ。あれからもう六年近くも経っていた。シャワーの音が消え、バスルームのドアの音が鳴った。

「コナン、そこに置いておいたタオル使えよー」

 洗面所にいるであろうコナンに、小五郎は声を張り上げる。返事がない事は想定済みだ。そんな気力すらないのだ。
 灰原哀が消えたという。先ほど阿笠博士の携帯電話に電話をしたら、博士はそれについて知っていた。そしてコナンを頼むと言われた。博士はどうやら学会か何かで大阪にいるらしい。
 いったいどんな理由があったか知らないが、それでも好きや愛しているの感情だけで一緒にはいられない事を、小五郎は誰よりも知っているつもりだ。
 色々と思いを巡らせていると、カチャリとドアが静かに開き、小五郎が貸したスウェットを着たコナンが静かにリビングに入って来た。

「おう、少しは温まったか?」
「…うん。ありがとう、おじさん」

 あまりのしおらしさに小五郎は拍子抜けしてしまう。

「制服…、どうしたらいい? 一応洗濯機の所に吊るしたけれど」
「おー、明日クリーニングに持っていってやるから、置いておけ」

 小五郎の言葉にコナンは首だけでうなずき、タオルを持ったまま、リビングの小五郎の隣に座った。あの時と同じように、テレビが着いていて、この空気にふさわしくない笑い声が響く。小五郎は眼鏡をかけていないコナンの横顔を見る。高い鼻筋も、長い睫毛も、あの頃と同じだ。だけど十年前の工藤新一にはなかった雰囲気を、コナンは持っている。
 コナンの黒髪から水滴が落ちた、その瞬間すら儚くて今にも消えてしまうそうだった。

「おまえ、髪はきちんと乾かせよ。昔蘭にもよく言われただろう」

 小五郎は思わず肩にかけられていたタオルでがしがしと頭を拭いてやる。今時の子供らしく顔も小せぇな、とひとりごちる前で、コナンは眉間に皺を寄せた。青みがかった瞳が揺れる。あ、やばい、と思った時にはもう遅かった。

「……哀にも、言われた」

 堪えるように真ん丸に開かれた瞳から、ぽたりと滴が落ちた。
 男の涙を綺麗だと思ったのは初めてで、小五郎は面食らった。涙を隠すように、更に頭を拭いてやる。
 やっぱりコナンを連れてきたのは間違いじゃなかったと思った。哀と暮らした部屋に一人で過ごせるほど、きっとコナンは強くない。生活のひとつひとつに別れた女の気配を感じる部屋で過ごせるほど、男は強くない。ずいぶんと昔の自分もそうだった事を小五郎は思い出した。でも、自分のすぐ傍には愛娘がいた。そして家を出て行った妻も近くにいた。彼女達を守るためだったらどんな事も我慢できたし、信念を貫く事もできた。
 だけど、コナンは違う。江戸川コナンとして生きている以上、彼は孤独だ。

「しばらくここで暮らしていいぞ」

 小五郎が言うと、タオルで顔を隠したまま泣き続けたコナンが涙声で、ありがとうおじさん、とつぶやいた。