幕間1
灰原哀が姿を消したらしい。
小嶋元太がそれを聞いたのは、卒業式の三日後だった。
『哀ちゃんが、遠くに引っ越しちゃったみたいなの』
電話の向こうで、涙声で歩美がつぶやいた。
元太はここ最近の哀の様子を思い返す。コナンと一緒に暮らして二年以上が経っていたが、特に変わった様子はなかった。冬休みも五人で受験勉強をした時も淡々と問題を解いていて、光彦達との会話でてっきり帝丹高校を受験するものなのだと思っていたのだ。別の高校を受験するらしいとコナンから聞かされたのは、三学期の始業式の日の事だった。
『コナン君…、大丈夫かな…』
きっと歩美は泣いている。その事実に胸を痛めながら、元太はスマートフォンを握りしめた。
まさかコナンが何も知らないわけがないと思うけれど、どうやって歩美をなだめていいのか分からない。昔苦手だった事は、歳を重ねても苦手なままだ。
『お願い、元太君。歩美、今日は家族と出かけないといけなくて…。コナン君の様子を見てきて』
歩美の頼みなら断れるわけがない。元太はうなずき、立ち上がった。
卒業式に降った雨は結局三日間降り続き、今日の朝方まで降ったせいか外に出るとアスファルトはまだ湿っているようだった。湿った空気の中久しぶりに顔を見せた太陽の日差しを浴びながら、元太は歩き出す。
光彦に連絡を取ったら、光彦も今日は都合が悪いとの事だった。仕方なく元太は一人で工藤邸に向かう。
いつ見ても幽霊屋敷のような洋館だと思いながらチャイムを押すが、何の反応もない。まさかコナンまで姿をくらましているわけではないだろうけれど、心配になって隣の阿笠邸に行くと、博士が困ったような顔をして答えてくれた。
どうやらコナンは工藤邸にいないらしい。そもそも哀はなぜ引っ越す事になったのか。博士に訊いても曖昧に濁された。博士もコナンの事を心配していたので、元太はコナンが今いる場所へと向かった。
中学校に入学する時に両親に買ってもらった腕時計は午前十時を示している。自分達が春休みになろうと関係なく、米花町の景色はいつもと変わらない。
結局コナンや光彦と同じ高校に進学することはできなかったけれど、それについてはもう悩む事もない。小学校の頃から五人で探偵ごっこをして、時には残酷な現場を目の当たりにしてしまった事もあったけれど、彼らは自分にとって誇れる仲間だった。だから、その内の一人が欠けてしまった事に疑問を覚える。
思えば哀は小学生の頃から異端だった。話しかければわりと気さくに何でも答えてくれたが、心を開いているのはコナンだけである事は誰が見ても分かるくらい、二人はいつも何かを共有していた。それはきっと元太達が足を踏み入れる事を許されないものだった。
車通りの多い道を歩き、向かった先は毛利探偵事務所。古びたビルの階段を上り、探偵事務所のドアを開けると、探偵である毛利小五郎がつまらなさそうに元太を迎えた。
「あのボウズなら上にいるぜ」
煙草を取り出しながら、小五郎は顎で上にある自宅を指した。
博士の情報は間違っていなかったようで、なぜコナンがここにいるのかと首をかしげたが、そういえば小学四年生の頃まではここに住んでいた事を思い出した。一時期学校でコナンと哀の同棲が噂にもなっていたが、コナンも哀も家庭が複雑だった。彼らはそれに関して特に何の情緒も持っていないようだったが、元太の知らない所で葛藤があったのだろうか。
小五郎に指示された通り、更に階段を上って毛利家の玄関を開けた。
「コナンー?」
お気に入りのスニーカーを脱いで、リビングを見渡す。しんと冷たい空気が漂う。
どの家にも独自の香りというものがあるものだが、毛利家の香りはリビングの煙草と芳香の混ざったものだった。元太は小学生の頃を思い出す。コナン毛利家の長女でもある蘭にも遊んでもらっていた事を思い出し、色々あったけれど自分がいかに恵まれた小学生だったかを悟った。
この家に住んでいた頃のコナンが寝ていた部屋のドアをノックし、そっと開く。そこは小五郎の部屋なので、リビングよりもさらに煙草の香りがした
「コナン?」
奥にあるベッド横の床に敷かれた布団に、コナンが転がっていた。正確には盛り上がった布団の中にコナンが埋もれていた。
「おい、コナン。もう十時過ぎてるぞ!」
元太が布団を剥がすと、スウェットを着たコナンが目をこすりながら元太を見上げた。
「……何」
聞いた事もないくらいのガサガサの声に、元太は一瞬言葉を詰まらせた。そして悟ってしまったのだ。歩美の心配していた通り、コナンは哀がいなくなった事に傷ついている。きっとコナンはつい先日まで哀がいなくなる事を知らなかったのだ。