君に贈れるもの


 ――今夜会える?

 クエスチョンマークを入れてもたった六文字のダイレクトメッセージに、コナンが動揺したのは午前八時のことだ。
 五月の連休真っ只中のオフィス街は、平日に比べて人の数が劇的に少ない。三年前に設立した探偵事務所が入っているビルのエレベーターに乗っている朝、スマートフォンのメールアプリで届いたメッセージは間違いなく哀からのものだった。
 十日ほど前の日曜日、コナンは約束を取り付けたのだ。再び付き合い始めて一か月以上経つというのに、コナンは今も一人寂しく眠りに就く日々を送っていた。付き合い始めた当初こそ、まるでストーカーのように彼女に執着していたが、先日哀の部屋で久しぶりに哀の体温を感じながら眠りに就いた事で、ようやく思い知ったのだ。
 この身体は、この手は、彼女の柔らかさを覚えている。もう七年も触れていないのに。

「……これって、そういうことだよな」

 エレベーターの中で誰もいないのをいい事に、壁に寄りかかってコナンはひとりつぶやいた。



 仕事を終わらせ、電車に乗る。朝のオフィス街とは違い、夕方の電車内は家族連れやカップル、友人同士などで人口密度が高くなっている。米花駅に着き、改札口をくぐると、柱の前に立って哀が待っていた。

「江戸川君、お疲れ様」

 午後六時。春らしい淡い水色のワンピースにデニム地のジャケットを合わせた哀は、スーツ姿の時よりもずっと年相応に見えた。

「夕飯、どうする? 連休だからどこも混んでいるかもしれねーけど」
「あなたは何を食べたいの?」

 訊ね返され、哀の隣を歩きながら、コナンは駅前に立ち並ぶ居酒屋を眺めた。ちょうど半年ほど前、久しぶりに少年探偵団で集まった居酒屋は、今日も繁盛しているようだ。

「哀の手料理食いたいな……」

 ほとんど無意識に出た言葉だった。そんなものでいいの、と哀は苦笑し、工藤邸までの帰路の途中にあるスーパーに寄って帰ることにした。
 まだ日が沈みきっていないうちから、スーパーの看板がライトで照らされている。昔、その隣には古びた喫茶店があった。まだ日本に住んでいた父親が時々その喫茶店で執筆をしていたのを見て、いつか自分が大人になったら自分も一人で通うようになるのだろうとコナンは漠然と思っていたが、いつの間にかその喫茶店は閉店し、跡形もなく消えてしまった。そこは今もさら地のままだ。
 食材を買い、哀と並んで歩いていると、まるで中学生の頃に戻ったような錯覚に襲われる。そういえば中学三年生の頃、今と同じように哀と一緒にスーパーで買い物をしていた事を、学校から咎められたことを思い出す。あの頃のその出来事は、きっと哀にとってひどく傷ついたものだったと思うけれど、それも時間と共に癒されるといいとコナンは願う。
 家に着き、コナンがジャケットをクローゼットの中に掛けている間、哀が慣れた足取りでキッチンへと向かった。哀に手伝うことはないかと訊ね、言われた通り、ジャガイモの皮をむいたり、調理器具を洗ったりしている内に、夕食の準備ができたようだった。時計の針は午後七時をまわっていた。



 自宅の食卓で哀と向かい合って食事をするのは久しぶりだった。最近読んだ本の感想や、哀の会社での出来事、自分の仕事の事を話している内に食事を終え、食器を片づけていると、哀がブランドのロゴが入った紙袋をコナンに見せた。それは待ち合わせをした時から哀が手に持っていたもので、ショッピングの帰りか何かなのだとコナンは気にも留めてなかったものだ。

「何だ、それ?」

 皿洗いによって濡れた手をタオルで拭きながらコナンが訊ねると、哀が紙袋を差し出しながら、

「誕生日プレゼント」

 何事もないような言い方で、さらりとつぶやき、コナンは一瞬何の事かを考える。そして今日の日付と今の時刻を確認する。五月四日、午後八時四十三分。

「え、俺の?」
「相変わらずなのね。あなた以外誰がいるのよ」

 呆れたように笑う哀を抱きしめたくなる衝動を堪え、コナンは紙袋からラッピングされた手の平くらいのサイズの箱を取り出す。包みを崩さないように丁寧にテープを剥がし、箱を開けると、そこにはキーケースが入っていた。シンプルなストライプの線が入ったそれは、持った時の皮の触り心地も自分自身にしっくりきた。つまり、単純にコナンの好みのものだった。

「……サンキュー、な」

 キーケースに付いているチェーンが小さく音を立てる。コナンがつぶやくと、哀がほっと安堵したように笑う。コナンはキーケースを戻した箱ごとテーブルに置き、今度こそ哀を抱きしめる。
 五月四日。今日はコナンが二十三歳になった日だ。深く息を吸い込んでも、心臓の高鳴りは消えず、胸が痛む。まだ酸素が足りない。

「おまえはすごいな……」

 彼女のニットの感触を手の平全体で感じながら目を閉じたコナンは、やはり十五歳の頃を思い出していた。付き合い始めてから三回目にもなるクリスマスには、彼女に渡すプレゼントに迷っていた。『クリスマスプレゼント 彼女』とパソコンで検索しているのを哀に見つかり、結局は彼女に直接何が欲しいのかを訊ねた、決してスマートだとは言えない思い出だ。
 それに比べて、哀はいつだってコナンの求めるものを差し出してくれる。

「そんな……、大袈裟だわ」

 コナンの胸元に頬ずりするように哀が答えるけれど、コナンにとってはプレゼントの事だけではない。コナンすら忘れていた今日という日に会ってくれるのは、哀の優しさであり、愛情だ。
 自分にできることはなんだろう、とコナンは考える。簡単に答えは見つからない。だけど今腕に抱きしめている体温を離す事ができない。
 十日前に取りつけた約束は今も有効だろうか。ただやりたいだけだと思われたら終了だと光彦から釘を刺されたけれど、そういうことではないのだ。しかしそれは切っても切り離せないもので、何の説得力も生み出せず、ただ抱きしめたままコナンは哀のかすかなフレグランスを鼻腔に感じる。

「江戸川君……?」

 動かないコナンを不審に思ったのか、哀が身をよじって顔をあげる。自分はいったいどんな顔をしているというのだろうか、コナンの顔を見た哀が可笑しそうに笑い、コナンの眼鏡を両手で取り、そのまま背伸びをするようにキスをした。
 唇に熱を感じた瞬間、もう駄目だった。哀はいつもコナンの求めるものを差し出してくれる。眩暈を覚え、足りない酸素を求めるように、コナンは哀の頭を抱えるように深いキスを返した。



 縺れるようにして二人で階段をあがり、寝室に辿り着く。彼女の着ているワンピースのファスナーを探していたら、哀に笑われ、手首ごと誘導された。まるで初めてを迎える中学生のようだ。しかし細い指でコナンの着ているシャツのボタンをひとつずつ外していく哀の姿を見て、初々しさで溢れていたあの頃とはもう違うのだと悟る。実年齢から十を差し引いても、自分達は大人になってしまった。
 大人になった今、中学生の頃のように小さな事では傷つかなくなったと思う。当時の教師から糾弾された言葉も、今ならきっと笑って流せる。そうやって武装する術を持った。
 それでも、世界に馴染もうとする心は時々疲弊し、今も癒しを求めている。
 ベッドに横たわる哀の髪の毛が絡まらないように指で梳きながら、唇で彼女に触れていく。彼女の色づいた唇にも、閉じた瞼にも、冷たい鼻にも、昔と変わらない真っ白な首元にも。そのまま舐めるように鎖骨に触れた時、彼女がびくりと震えた。

「ここ、キスマーク付けていい?」

 セーラー服を着なければならなかった中学生の頃の哀には、鎖骨周辺にキスマークを残すことなんて言語道断だった。白い肌から唇を離してコナンが顔をあげると、頬を赤く染めた哀に出会い、そういえば彼女はベッドの上ではいつもこんな顔をしていたことを思い出す。きっと学校じゅうの誰もが知らなかった、期待と恥じらいを併せた哀の表情を、コナンは今再び独り占めしている。その事実に息苦しさを覚えた。
 コナンの問いに、哀が顔をしかめる。

「いいわけないでしょ……」
「スカーフとかで隠せねーの?」
「そんなの、ここにキスマークがありますって言っているようなものだわ」

 その言い分こそ大袈裟な気もするけれど、確かにこれまでスカーフを付けているのを見た事がない哀が突然付け始めたら、職場で勘付かれてしまうかもしれない。職種が治験関係とはいえ、仕事で関わる男も多いだろう。彼女のこんな姿を知っているのは自分だけでいい、というどうしようもない独占欲を持ったコナンは、代わりに下着を外した彼女の胸元を強く吸った。
 フレグランスとは違う、彼女の肌の匂いに酔いそうになる。香りは簡単に過去の記憶を呼び戻す。思春期に抱え込んでいた感情は、今も心の奥深くに眠っている。
 彼女を最後に抱いたのは中学校の卒業式前日だった。あの頃は空虚な心を持ったまま、弱さを強さに変えられないまま、隙間を埋め合うようにして抱き合っていた。

「江戸川君……」

 浅くなる呼吸と呼吸の合間に、哀がコナンの名前を呼び、たまらなくなってコナンは再びキスを落とす。呼吸困難になっても、全身に血液が流れ続けるのを感じる。
 大人になればそれなりの強さを身につけてきたけれど、それでも本当のところは当時とあまり変わらないのかもしれない。今している行為だって、まやかしに近いものかもしれない。癒しを求めるように哀に触れる指は、今も臆病を隠していない。
 それでも。

「好きだ、哀……」

 熱い彼女の中に押し進み、あの頃には素直に言葉にできなかった感情を声に出すと、哀が一瞬目を見開き、そのまま泣きそうに表情を崩した。甘い感触にコナンは唇を噛み締める。――好きだ、好きだ。全身で泳ぐようにして彼女の体温を感じながら、香りに意識を彷徨わせながら、ひたすらつぶやいた。



「朝、俺を起こしてくれる時に、俺の頬に触れてくれただろ。それがすげー好きだった」

 シャワーを浴び終えた後、特有の疲労感を覚えながらベッドの中で哀を抱きしめ、コナンはぽつりとつぶやく。

「あと、俺が帰った時、何をしていてもおかえりなさいって言ってくれるのも、すげー好きだった」

 一緒に住んでいた頃、哀はベッドの窓側で眠っていた。その頃と同じ場所で、コナンの腕の中で哀が怪訝そうにコナンを見上げる。

「なに、突然。どうしたの」
「過去の反省から、思った事を言おうって誓っただけだ」

 哀の癖がかった前髪に口付けながらコナンがつぶやくと、哀が小さくため息をつく。

「別に、そんなに無理をしなくたっていいわよ。私だってそういうの得意じゃないし、返せないわ」

 それが照れ隠しである事にコナンは気付いているが、敢えては言わない。

「うん。それでも、今はおまえに伝えたいんだ」

 カーテンの向こう側の空はとうに暗く、浮かぶ闇はわずかな外灯で照らされているだけだ。午後十一時二十三分。永遠は必ずしも手に入るものではないと知ってしまった。それでも、今度こそ彼女との未来を願い続けている。
 幼かった頃に曖昧な地面の上で震えていた恋は、今も続いているのだ。世界から見離されていたのだと嘆いていた自分に哀が与えてくれたもの。

「俺も今度、おまえにプレゼントを贈るよ」

 哀の髪の毛から漂う自分と同じシャンプーの香りを鼻先に感じながらコナンがつぶやくと、哀が再び眉を潜めた。

「プレゼント?」
「ああ。この部屋でおまえに着てもらうルームウェアを」

 思い余ってネタばらしをしてしまうコナンに、哀が相変わらずね、と昔と変わらない表情で微笑む。やはりスマートにはいかない自分に嫌気を覚えながらも、こうして穏やかに彼女の体温を感じる時間を幸せだとコナンは思う。
 多くの出来事を迎えてきた自分達は、簡単に一緒に暮らす事を決断できない。今でも哀がいなくなる朝を想像しては怯えて眠れない夜もある。
 だけど信じる事も愛のひとつなのだ。せめて闇に包まれたこの部屋が朝の光に照らされるまでは、彼女の温もりを感じたまま眠れるよう、コナンはゆっくりと目を閉じた。



(2018.12.26)