やさしいよるに(3)



3.旋律の転調



 彼女の涙の気配に目を覚ました。
 泣きじゃくる哀を布団の中で抱きしめ、コナンは大丈夫だと彼女の背中を叩く。また根拠のない単語を使っている自分に嫌気がさし、彼女の頭に顔を寄せた。
 シャンプーの香りに動揺した。いったいどうしたというのだろう。昨夜の記憶は全て残っている。元太と光彦と三人で飲んで、どうしても哀に会いたくなった。初めて足を踏み入れたこの部屋に着いた途端、更に酒がまわって饒舌に色々語った事も覚えている。内容は曖昧だが、きっと彼女と共有する思い出話や近況だろうと推測できる。
 それにしても、今のこの状況は。

「哀……」

 自分の悪い癖をコナンは嫌というほど分かっているし、省みているつもりだった。でも結局こんな場面に出くわせば語彙力を発揮する事もできず、彼女の心を落ち着かせる事もできない。
 時計を見ようと枕元に視線を向け、まだ六時前であることを確認する。そして哀に視線を戻し、抱きしめている布の感触に気付く。

「哀、このガウンって、もしや……」

 淡い紫色のガウンに見覚えがあった。コナンが言うと、哀が鼻をすすりながら、ゆっくりとコナンを見た。コナンは哀が羽織っているガウンに触れ、もう一度その色と形を確かめる。

「やっぱり、そうだよな。俺が昔にあげたガウンだ」
「…ええ。十五歳のクリスマスプレゼントに、あなたから貰ったものよ」

 かすれた声ははっきりと響き、コナンは哀の濡れた頬に触れる。真っ赤な目で自分を見つめる視線に、どきりとした。このガウンを送った数か月後に哀は消えた。だからこのガウンを着ていた哀の記憶は少ない。
 それでもこの生地を知っている。感触を覚えている。離れていても、イギリスに渡っても彼女がこのガウンをずっと持っていたのかと思うと、どうしようもない愛しさに包まれ、思わず濡れた瞼に唇を寄せた。
 チュ、と音を立ててキスをする。
 コナンの突然の行動に驚いたのか、哀は目をぱちくりとさせた。そして驚いたのはコナン自身もだった。慌てる心を隠すように、セリフを探し出す。

「そ、そういえば、なんで泣いてたんだよ?」

 カーテンから漏れる朝の光を感じながら、布団の中で体勢を整えて哀の表情を確認する。哀は少しうつむき、小さくつぶやく。

「あなたを好きだと思ったの」

 コナンは先ほどキスを落とした彼女の瞼に触れる。溢れそうになるこの気持ちを伝える方法は、もう言葉だけでは足りなかった。たった昨日、光彦達に宣言したはずなのに。ただ哀と一緒に過ごせられたらそれで満足だと思っていたはずなのに。

「俺を、好きなら……」

 思いのほか声が震えた。彼女の瞼も震えているから同じだと思った。哀の緑がかった瞳が自分を映している。

「俺を好きなら、キスしてよ」

 コナンが言うと、哀はそっと右手でコナンの頬に触れた。細い指先が少しだけかさついていて、それさえも愛しくて、彼女が欲しかった。髪の毛一本から足の先まで、全てが欲しかった。きっとまた光彦達に気持ち悪いと罵られるのだろうけれど。
 哀の唇が自分の唇に触れる。些細なことなのに、心臓が破裂しそうなくらい熱い。

「……これで足りると思ってんの?」

 コナンの言葉に、哀は困ったように眉をしかめ、コナンの襟ぐりを掴んだ。そしてそこに唇を寄せる。首元にちくりと痛みが走った。

「え…?」
「これで満足?」
「な、何?」
「あなたの急所」

 痛みをなぞるように指で触れた哀が、涙目のままおかしそうに笑った。

「あなたも今日は仕事でしょ? そろそろ起きない?」

 呆然とするコナンをよそに、哀は布団から出る。その温もりを名残惜しみながら、コナンはため息をついた。

「なぁ、哀。覚えているか?」

 彼女の淡い紫色を視界に入れる。

「そのガウン、俺がプレゼントを選べなくて、おまえに決めたもらったんだ」

 懐かしく思いながらコナンがつぶやくと、哀が髪の毛を両手でかきあげながら振り返った。

「覚えているわよ。何を選んだら分からないって、あなたが泣きついてきたんじゃない」
「泣きついてねーよ」

 思わず反論すると、哀は笑う。そういえば化粧も何もしていない彼女の素顔を見るのは久しぶりだった。あの頃、いつまでも眠っているコナンを哀は優しく起こしてくれた。朝よ、という一言で、コナンは一日の始まりを迎えられた。

「…でも、嬉しかったわ。あなたは何年経っても、クリスマスと誕生日は一緒に過ごすと決めて、プレゼントを考えてくれたものね」

 そう言って、哀は洗面所へと消えていく。コナンはベッドの上でのそりと起き上がり、横にあるカーテンを開けた。白い光に目を細める。街はもうとっくに朝を迎えているようだった。
 クリスマスと誕生日は特別だった。学校行事や警察からの呼び出しで忙しくても、その日だけは哀と過ごしたかった。ホームドラマで繰り広げられるシーンのように。
 冷たい床の上に立ち、コナンはようやく脳が働き始めるのを自覚し、今日のスケジュールを頭の中で反芻する。大通りに出ればタクシーを捕まえられるだろうか。景色を眺めながらのんびり電車で帰るのもいいかもしれない。

「哀、俺そろそろ帰ろうと思うんだけど……」

 言いながら洗面所を覗くと、ちょうど哀が洗顔を終えてタオルで顔を吹いているところだった。そして見てしまった。洗面台の大きな鏡に映った自分の姿。昨日から着たままの皺だらけのニットの首元、鎖骨の辺りに赤い印。

「…これ、さっきのだよな」

 思わず低い声でつぶやくと、哀が鏡越しにいたずらに微笑んだ。ヘアバンドで前髪をあげて、コットンで化粧水を頬に叩く彼女をどうしてやろうかと考える。同じようにただキスマークをつけたくらいじゃ、おさまらない。

「俺、もう帰るけどさ」

 ドアの横にかかっていた上着を取りながら、コナンは鏡越しに哀をじっと見た。

「今度はうちに来いよ。そんで、おまえを抱きたいんだけど」

 さらりと言うと、哀は目を丸くして、振り返った。今度は鏡越しではなく、本物の彼女の瞳にぶつかる。額に前髪がおりていないせいか、さらに強い視線にコナンはどぎまぎするが、敢えて冷静さを保って見せる。

「……悪くないわ」

 あどけなかった頃とは違い、大人の色気を醸し出して微笑む哀にくらりとした。いつも形勢逆転されてしまうが、こんな日々も悪くない。彼女との関係はいつだってそうだった。出逢った時からずっと。
 コナンは上着を羽織り、靴を履いて哀の部屋を出る。四月の終わりの早朝。今日の空は一段と青く、太陽の光がいつもよりも優しく街を照らしていた。



最後まで読んで下さりありがとうございました。
1話目の元太さんですが、本来警察学校での寮生活中は外出禁止だそうです(wikipediaさんより)
細かい設定などは見逃して下さい。すみません…。
(2017.10.9)