エピローグ


 ミュージックセラピーという言葉が存在するように、音楽には癒し効果があるといわれ、医療現場で活用されている例も少なくない。ホテルのロビーで、控えめに流れるジャズミュージックを聞きながら、私は唐突にそんな事を考えていた。
 目の前には自分と同じようなフォーマルなドレスに身を包んでいる若い女の子達が三人集まり、話を盛り上げていた。もしかしたら久しぶりに再会した級友なのかもしれないと、自分には無縁に思えた光景をソファーに座りながらぼんやりと見つめる。

「灰原さん」

 あまりにもきっちりと盛り上げた女の子達の髪型に視線を奪われていると、名前を呼ばれ、私は我に返る。

「円谷君、久しぶり。スーツ似合うわね」
「そういう灰原さんこそ、素敵なドレスです」

 ソファの横で立っている、黒いスーツを着こなした円谷君の相変わらずの口の上手さに私は微笑むしかない。
 一流ホテルの結婚式場では一日に何組もの結婚式が行われ、係の案内に従い次々にチャペルへと正装した人々が吸い込まれていく。その騒々しさをかき消すように、ジャズが心地よく空気に溶け込んでいく。
 いつの間にか、目の前にいた女の子達がいなくなっていた。もう式に参列しているのかもしれない。

「コナン君は?」
「まだ片付いていない仕事があるって言ってたわ」

 私はここしばらく会っていない恋人の顔を思い出す。
 再び付き合い始めてからの江戸川君は、どこか不安定だった。仕事が忙しいくせに、仕事を離れると私に執着し、何かあるたびに一緒に暮らしたいと嘆いた。私がそうさせてしまった。だけど時間が経つにつれて、二人で過ごす時間が少ない事に対しても平気になっていたようだった。時間が解決するというのは真理だ。
 むしろ、中学生の頃の私達が異常だった。世界の広さも見えずに、二人でいる事に固執していたのだから。
 やがて私達が参列する式も集合時間になり、私と円谷君は指定場所へと歩く。
 営業として働く円谷君は、毎日深夜帰りになっているのだと笑う。その笑顔の中には疲労が混じっていたが、自分の仕事を楽しんでいるようにも見えた。売上という分かりやすい目標をかかげ、日々奔走する。探偵団として事件を探していた幼い彼の姿を思い出す。
 チャペルの一番後ろの席に腰をかけると、私の横に急に影ができた。

「悪い、遅くなった」

 息を切らしている江戸川君の黒いスーツ姿は、円谷君のものよりも新鮮味がない。有名な探偵としてパーティーに呼ばれる事が日常茶飯事だからだ。

「謝る相手は私じゃないでしょ」
「コナン君、間に合ってよかったです」

 中学生の頃よりも外で会う機会が増えた江戸川君は、立派に遅刻の常習犯だ。聞き覚えのあるセリフにむっとするも、円谷君の声にかき消される。江戸川君がふっと笑みを漏らした時、背後で扉が開いた。
 タキシード姿の小嶋君が、緊張した面持ちでバージンロードを歩く。シャッター音にも動じない彼は、凛々しい眉をいつもより少しだけ吊りあげ、力のある瞳がまっすぐに前と向いていた。
 そして再び扉が開き、今度は新婦とその父の登場だ。

「歩美、綺麗ね…」

 思わず声を漏らすと、隣で江戸川君が私の指にそっと触れた。
 ヴェールの下に顔を隠した歩美は、少しうつむき加減にウェディングドレスの裾を気遣いながら歩いて行く。聖歌隊の歌声が響き渡る中、そこに広がるのは幸福、ただそれだけだった。
 この世には多くの感情が潜んでいる。人はネガティブな感情の方が共感しやすいという。だから人類の文化の中で宗教が生まれ、芸術が栄えた。何気なく耳にするメロディひとつも、疲れた心に沁み渡っていく。
 私達は、二人が指輪を交換して結婚証明書に記入するのを、こみ上げる感情を抑えながら見つめていた。歩美が留学から帰って来てどれだけの日数が経っただろうか。きっと私達には分からないところで、二人は今日を迎える為の道を歩んだのだろう。

「あー…、俺泣きそう…」

 横で江戸川君がつぶやくので、私は小さく笑いながら視線を向けた。

「感動したの?」
「いや、あの可愛かった歩美が、まさか元太と結婚するなんてなー…」

 まるで父親のような言葉に、私と円谷君は苦笑いをする。きっと江戸川君は歩美の相手が誰であれこうしてうなだれていたのだろう。私には理解しがたい感情だが、感慨深いのは同じだった。

「小嶋君でよかったじゃない。歩美を守ってくれるわ」
「いや、そうだけどさー…」

 頭では分かってるんだけど心がついていかねーんだ、と安っぽい歌のようなセリフを真面目に吐く江戸川君を無視して、私は再び前へと視線を戻す。神父が小嶋君と歩美の前に立って、訛った日本語で問いかける。

「死が二人を分かつまで、愛を誓いマスカ?」

 はい、誓います。
 二人の声が順番に響くのと同時に、江戸川君がぎゅっと私の手の平を握りしめた。
 私は愛なんて抽象的なものを信じられるほど純粋な性格でもないけれど、それでも今は目に見えた気がした。私が江戸川君を思う気持ちも、愛情のひとつだと嬉しい。江戸川君は私に多くの愛を与えてくれるから。
 私の願いは昔から変わらない。だけどひとつだけ付け加えるなら、その幸せの隣に私もいられますように。
 健やかなる時も、病める時も、死が二人を分かつまで。



fin.