やさしいよるに(2)



2.朝が来る前に



 まだ夏の訪れまでに時間はあれど、四月の終わりから始まる大型連休は真夏のように暑い日が訪れる事も珍しくない。今日も一週間前には考えられないほどの最高気温を叩き付け、それでも連休で浮かれている日本人はその暑さでさらにテンションがあがっているようだった。
 哀は夏が苦手だ。もともと日差しには弱いし、一度日本を離れた事によって日本特有の蒸し暑さは息がつまる。それでも五月を目前とした日曜日の夜はまだ肌寒い。
 リビングの窓をそっと閉め、哀はベッドに視線を向けた。そこには先ほどまで酔って饒舌に話していたコナンが、眠りの世界へと入っていた。



 コナンが社宅でもある哀の部屋にやって来たのは、一時間前だ。
 スマートフォンが鳴り、エントランスまで迎えに行くと、コナンがタクシーに代金を払って車から降りてきた。

「哀!」

 ふわりとアルコールの香りを漂わせたコナンは、飛びつくように哀の傍へと駆け寄った。

「ちょっと…、あなた酔ってるの?」
「うん、酔ってる」

 いつもより子供っぽい話し方で、コナンは哀に抱きつき、肩に顔を寄せた。
 やたらとくっつきたがるコナンを抱えるようにして、哀は部屋へとコナンを押し入れた。社宅とはいえ、実情は普通のワンルームマンションと変わらない。コナンに靴を脱がせて、奥にあるリビングのベッドへと座らせる。

「そんなにたくさん飲んだの? 小嶋君達と飲むって言ってたわよね」
「そう。あまり飲んでないけれど、すごくいい気分なんだ」

 だって哀が会ってくれたから。
 へらりと笑う彼の表情は、演技している江戸川コナンのようで、薄気味悪い。何かを企んでいるのではないかと身構えてしまうが、彼の話を聞いていると、本当にただ酔っ払っているだけなのだと分かった。コナンは最近の仕事の話や警察関係者の話、少年探偵団との飲み会での出来事、更には蘭と娘の桜の話を話題を引っ張り出してきた。彼を形作る世界。
 そうしている内にコトリとベッドの上に転がって寝息を立て始めた彼を、一体どうすればいいというのか。風邪をひかないように転がったコナンに毛布をかけ、哀は身支度を整え、しばらく迷ってからコナンの横へと潜り込んだ。



 ふと意識を覚醒させる。枕元に置いてあるアナログの置時計の秒針が響く。
 真っ暗だった窓の外に光が生まれている。日の出の時間は夏至に向けてこれからどんどん早くなっていくのだろう。哀はゆっくりと目を開けて、白く薄い光が入る部屋の天井をじっと見つめる。
 哀の横では変わらずコナンが寝息を立てている。彼の隣で眠るのは本当に久しぶりのことで、今になって哀は動揺した。午前五時半。起きるにはまだ早い時間だというのに、慣れない体温を感じて目が冴えてしまう。
 哀はゆっくりとベッドの上で身体を起こし、足元に置いていたガウンを羽織る。床に足をついた時、

「哀……?」

 ベッドの上から声が聞こえ、思わず哀は振り返った。

「哀、行かないで……」

 顔を背けて横向きに眠るコナンの表情は見えない。哀はベッドの上に座り直し、コナンの様子をうかがう。

「江戸川君…?」

 哀には応えずコナンは体勢もそのまま、寝息をたてている。哀は音を立てないように呼吸することすら慎重に、ただコナンの後頭部に視線を向けた。自分の幻聴だろうか。彼の寝言だろうか。
 彼の声が何度も哀の鼓膜の中で繰り返される。

  行かないで

 ざわりと身体の中の血管が音を立て、ぐらりと眩暈を覚えた。
 カーテンの隙間から零れる光。夜明けは、夢からの目覚めだ。七年前もそうだった。卒業式の朝、一睡もできないまま哀は夜明けを迎えた。コナンの寝息を聞きながら、もうこれで最後だと自分に言い聞かせながら、光を見つめていた。
 身体だけが中学生のコナンが、言葉にできない虚無感に苦しんでいる事を知っていた。彼の手は守る為にあるもの。苦しみや悲しみは自分が背負うから、せめて、せめて幸せに。そう願って、哀が大きな工藤邸のドアを開けた朝。
 ひとつの愛情を失ったくらいで世界は変わらない。自分の意志とは関係なく地球は回転し続けている。だけど、今になって分かった。コナンとの日常を失ってから、いつの間にか自分の中の何かが欠落していたのだ。
 光の眩しさを知らなかった。明るさも見えていなかった。部屋の壁の白さも、いつも着ているガウンの布の感触も、床の冷たさも、何にも気付いていなかった。隣で響く寝息を聞いただけで間違いばかりを犯してきた自分が救われるなんて、思いもしなかった。
 頬に生温かい涙が一筋流れる。時計の秒針はいつだって規則正しい。

「哀…?」

 先ほどよりもしっかりとした発音で名前を呼ばれる。こちらに顔を向けたコナンが、驚いたように寝不足な目を精一杯見開く。

「どうしたんだ? なんで泣いてるんだよ」

 伸ばされた太い腕に引き寄せられ、哀の身体は再び毛布の中へと戻り、コナンに抱きしめられる。その体温を感じて更に涙が溢れ、彼のTシャツを濡らす。彼の中にある傷はずっと消えない。これからもコナンは怯えを隠さずに哀に縋ってくるのだろう。そしてそれは哀も同じだった。恐怖は消えない。もう二度と選択を間違えないなんて言い切れない。
 目を背けていた熱い感情を抱えながら、未来をどこまで進めるのだろうか。

「大丈夫。大丈夫だ、俺はここにいるよ」

 だから人は恋をするのだろうか。誰かを愛せずにはいられないのは、この恐怖感によるものだろうか。でも哀にはコナン以外はいらなかった。一人でいた時は平気だった。それは本当だ。
 コナンの隣にいるから涙が溢れる。世界は熱く、明るく、哀に振りかかる。
 夢からの目覚めはすぐそこまでやって来ている。



(2017.9.24)