1.ボーイズトーク
夜の空を舞う風はすっかり春のものとなった。
「これからどうする?」
久しぶりに会って食事をした土曜日の夜、長年募らせた想いをようやく実らせたコナンが、再びやっと手に入れる事のできた恋人に訊ねた。
「帰るわ」
「……明日は仕事か?」
「違うけど、朝から用事があるから」
肩のあたりで揃えられた彼女の髪の毛がふわりと舞う。春色のパンプスに視線を落としたコナンは、そうか、とだけつぶやいた。
「そんなわけで! 翌日が休日だという夜、多忙な恋人と会ったというのに食事をした途端すぐに帰るその心とは!」
どん、とビールジョッキを置いた音が思いの外響き、グラスについた水滴が小さく飛び散った。
「付き合って一ヵ月だぜ一ヵ月、哀が忙しいのは分かるけれど、俺だって忙しいし、せめて二人で会える時間くらいゆっくりしたいと思わねーの? だいたい俺がメールしてもすぐに返事が帰って来ないのはおおまかに計算して、十回に対して七回で多すぎるし、ちょっとリサーチしてみたら哀が退社する時間は平均して午後九時、それより早い時間があってもあいつ絶対に俺に会いたいとか言わないし、これってどうなんだ付き合っているっていえるのか、そもそもあいつは俺の事が好きなのか……って、おめーらドン引きしてんじゃねーよ!」
コナンの目の前で、横に並んだ元太と光彦がしらっとコナンを見て、顔を歪めた。
「いやいや、普通に気持ち悪いですからね、コナン君……」
「てゆーか、コナン余裕なさすぎ。おまえそんなキャラだったっけ?」
二人ともジョッキグラスを片手に、薄目でコナンをじっと見つめる。コナンはグラスを持った手についた水滴をもう片方の手で拭いながら、ため息をつく。
「元々俺は余裕なんてねーよ、中学の時だって、全然なかった」
そうなのだ。中学生の頃はまだ虚勢を張っていた。二周目の人生だから、周りの人間よりも多く生きているから。その事実は自虐にもなり、どこか優越感にも浸れた。そして元太や光彦を子供だと思っていた。
だけど年数を重ね、そして工藤新一としての年齢を追い越し、ようやく分かったのだ。自分には余裕なんて最初からなかった。いつも満たされずに嘆いていた事を。
土曜日の夜、米花駅前の居酒屋は相変わらずにぎやかだ。話を仕切り直すように、光彦が座敷の上で座り直す。
「話を整理すると、コナン君は灰原さんと付き合って一ヵ月、なのに二人の時間をなかなかとれないということですね」
入社した会社の新人集合研修が終わったばかりとは思えない口調で光彦が言う。これから二か月はまだ配属された部署での研修が続くらしい。
「そりゃ、お互い働いていたら会える時間もねーよな。灰原は前から働いているんだし、そんな焦る必要ないんじゃねーの?」
この春警察官として採用された元太は、現在警察学校に配属され、寮に住んでいる。研修期間中は外出中も飲酒が認められず、したがって元太のジョッキにはコーラが入っている。
二人の大人な意見に、コナンはうなだれる。正論が人を救うとは限らない。
哀が自分を嫌っているとは思わない。だけど、偶然転勤があって東京に戻って来たからこの結果になったのであって、哀はコナンに再会しなければきっとずっと会うつもりもなかったのだろう。
「俺ばっかり必死になっていて、格好悪い…」
まだビール二杯目だというのに、頭がぼんやりとした。コナンはテーブルに伏せって目を閉じる。
「俺、あいつからメールの返事がないと、すっげー焦るんだ。またあいつがいなくなったのかもって思って…」
「………」
二人が同情するように、コナンの名前を呼ぶ。
小五郎からも言われたばかりだった。昔コナンが傷つけた本当の幼馴染だって、きっと怖かっただろう。新しい恋を迎えるたびに、喪失感に怯えていたかもしれない。それでも彼女は戦ったのだ。
それなのに、自分は弱い。
「そんで、だいたいの哀の一日スケジュールを考えて、今何してるのかとか頭から離れないし、夜遅くなっても返事がなかったら残業しているのかもって会社まで迎えに行きたくなるし」
「行ったのかよ!?」
「…行ってない。そこまでしたらヤバイのは分かってる。あいつも子供じゃねーしな」
コナンの返答に、今度こそ元太は呆れた顔で深く息を吐き、その横で光彦がテーブルに頬杖をついてコナンをじっと見た。
「なんか…、コナン君ってすごくねちっこいセックスとかしそうで嫌ですね…」
光彦が耳を疑うような単語を吐いたものだから、慌ててコナンは顔をあげる。
「おい! おまえからそういう言葉聞きたくねーんだけど!」
「なんでですか。だいたいコナン君達が中学生の頃からそうだったのなんて分かっていますし、今更純情ぶらないで下さいよ」
「そうだよなー。コナンって、時々俺らを子供扱いするけど、同い年じゃんか」
そういえばそうだった。同い年の男子は、特に思春期にはそういう話で盛り上がるのだろう。だけどコナンは彼らとは盛り上がれなかった。罪悪感があったのもひとつの理由だった。
だから対等な目線で彼らと話す事に対して、ちょっとだけ気恥ずかしい。
「別に、ねちっこくねーよ。至って普通だ。ただ、………」
突然黙り込んだコナンに、何かを察したのか光彦が枝豆をつまみながらふっと笑った。
「もしやコナン君。再会してからまだしていないとか言いますか?」
「え、まじで? おまえどんだけ枯れてんだよ、年齢ごまかしてるんじゃねーだろな?」
そこへ、お待たせしましたー、と店員が鳥の唐揚げを持ってきてテーブルへと置く。自分より若い、バイトの大学生だろうか。このタイミングでこの話を終わろうとコナンが再び生ビールを注文し、残ったグラスの分を飲み干す。
「で、どうなんだよ、コナン?」
話は終わっていなかったようだ。唐揚げを食べ始めた元太を見て、コナンは最近の事を思う。
「別に、それにこだわっているわけじゃねーんだ。したくないって言ったら嘘になるけど、しなくてもいいっていうか。夜にあいつの予定を聞いてみたのも、そういうんじゃなくてさ…。ただあまり話す時間もないし、ただそれだけなんだけど、誤解されたのかな…」
「女の人はそういうのに厳しいですからね。ただやりたいだけって思われたら、その時点で終了ですよ」
どこぞの恋愛評論家のように語る光彦の様子を見て、コナンはようやく可笑しく思って笑いだしたくなった。くだらないと思う。事件に出会えば真実に辿りつく事に不可能はないはずなのに、いつも一番大切に思う人の心が読めない。
アルコールが全身に駆け巡る。明日も仕事なのに、ふわふわと平衡感覚がなくなる。
「難しい事はよく分からねーけどさ、おまえが思うよりも灰原はおまえを好きだと思うぜ?」
二つ目の唐揚げを頬張りながら、元太はあっけらかんと言う。
「コナンは気付いてないかもしれないけど、おまえと一緒にいる時の灰原ってけっこう幸せそうだぞ」
そうだったらいい。彼女の傍にいたいと話して一ヵ月。彼女の望みは少しでも叶っているのだろうか。無性に哀の声を聞きたくなった。
米花駅前で二人と別れてから、コナンはスマートフォンを手にする。もうすぐ五月になるとはいえ、まだ夜風は冷たい。日曜日の夜の米花町は、人通りがいつもより少なく感じた。
哀を電話で呼び出すと、もしもし、といつものトーンが耳元に響く。
「哀」
彼女の声を聞いただけで夢の世界に浸る。歩道の端に立って、コナンはスマートフォンを握りしめる。
「会いたいんだけど」
明日は月曜日。彼女も仕事だというのに何を言っているんだろう。自制が効かないのは、願いを言葉に噛み締めるのは、アルコールのせいかもしれないと自分に言い聞かせる。
『どこに行けばいいの?』
現在午後十一時。コナンはタクシーを拾う。そっちに行くよ、と哀に伝えて、タクシーに乗った。声を聞いただけで泣きたくなった。一緒に暮らした頃を懐かしく思った。
(2017.9.19)