アニバーサリー ~Dear mine~


 腕時計が示す時刻は既に深夜1時をまわっている。
 コナンはそっと玄関のドアを開ける。人の気配を感じ、ほっとしながらキッチンのドアを開けると、そこにはいつものようにラップのかかった夕食が置いてあった。
 食欲よりも満たされたい感情がある。コナンはジャケットをリビングのソファーに脱ぎ棄ててから二階にあがる。音を立てないように寝室のドアを開けると、奥にあるダブルベッドで哀が寝息をたてていた。
 ようやく帰って来た、とコナンはほっと息をつく。
 連続殺人事件が横行している中、犯人の特定を急いでいた。春休みで学校が休みである事をいいことに、そしてやはり好奇心に勝てるわけもなくコナンは警察に協力をしていた。その代償として、もう一週間も哀と会話ができていない。
 昔は人一倍気配に敏感だった哀も、一緒に暮らす内にコナンが近付いても飛び起きるような事はなくなっていた。とてもいい傾向だと思う。彼女の神経を脅かす存在はこの世界にはいらない。
 コナンに対して背を向けるようにして眠る哀の柔らかい髪の毛に触れる。彼女の事だから今更寂しいだとか会いたいだとか、そんな戯言を抱えているわけがない。分かっていても、心のどこかでごめんな、とつぶやいてしまうのは、彼女に甘えているからかもしれない。会いたがっているのは自分のほうだ。

「ただいま、哀」

 声にならない声でつぶやく。髪の毛に触れた指先を名残惜しく離し、そして寝室を出た。



 血生臭い写真ばかりが机に散乱している。
 呼ばれた警視庁の会議室で、資料を読み込んでいると、カフェインの香りに我に返った。

「コナン君、大丈夫かい?」

 十年ほどの付き合いになる高木がコナンにコーヒーを差し出し、コナンは慌てて資料を閉じる。

「すみません、高木さん…」

 いくら顔見知りで親しいからとはいえ、警部補である高木に気を遣わせてしまった事に、さすがのコナンも畏れ、それでもカフェインの誘惑には勝てずに「いただきます」と紙カップに口を付けた。

「いや、僕達が無理を言って来てもらっているからね」

 申し訳なさそうに頭を掻く高木の左手をコナンはぼんやりと見つめる。薬指に光る指輪。彼らが結婚して何年経っただろうか。

「それよりコナン君、毎日大丈夫なのかい? 春休みだけど、君には君の生活があるはずだ」
「大丈夫ですよ。俺にしてみれば、いきなりこの事件を取り上げられる方が辛い」

 コナンが答えると、高木はおかしそうに笑った。出会った頃に比べて貫禄も出てきたが、こういう時は彼の童顔が強調され、強面の多い警察関係者の中でも高木はやはり異質だとコナンは思う。まるで自分と同じ、はみ出し者だ。

「でもコナン君、君は確か灰原さんと暮らしているだろう?」

 高木が哀を名前から名字へと呼び方を変えたのはいつだっただろう。それは彼なりの敬意の示し方である事をコナンは知っている。高木は人前ではコナンの事を江戸川君と呼ぶ。自分自身はまるで工藤新一の人生をなぞるように生きているつもりでも、時間の流れは人との距離感を変えていく。同じ失敗をしてはいけないと思った。その距離感を間違えると大切なものを失ってしまう。一年と少し前、コナンは哀を失うところだった。

「灰原さんは何も言わないのかい?」
「…別に、あいつは俺のこういう性格知っているし」

 コナンは紙コップを机に置き、散乱した写真をもう一度手に取りながら、曖昧に答える。複数の写真を注意深く見つめる。鍵はどこにあるか、共通点はないのか、カメラが残したメッセージを見落とさないように。

「女性の洞察力は侮れないからね。でも厄介なのは、相手も俺達に同じものを求めて、それを態度で表して欲しいと思っている事だ」

 高木の言葉を聞きながら、コナンは写真の中にあるひとつの鍵を見つけた気がして顔をあげた。

「高木警部補…、鑑識の方と連絡がとれますか?」
「ああ、すぐにとれるけれど。…何か分かった?」
「確認したい事があります。それと、高木さんの女性に対する考察は、受け売りですか? それとも経験談?」

 コナンが訊ねると、高木は緊張感を崩さないまま、やはり幼く見える顔で笑った。



 考えてみれば、母親である有希子の洞察力は探偵であるコナンとは別の方向で優れていて、そして彼女はよく「優作が私の事を分かってくれない」と少女のように不貞腐れていた。コナンからしてみれば有希子を世界で一番理解しているのは、他の誰でもない優作だと信じているのだが、有希子は貪欲なのだ。そういえば毛利蘭にしても似たようなところがあったかもしれない。ただしこの場合、工藤新一だった自分が彼女をどれだけ理解できたか、そして理解しようと努力をしたか、今となってはもう分からない。自分に欠けているものは多く、痛切に記憶している事といえば知らない内に彼女を傷つけていたという事だけだ。
 午後4時。ずっと頭を悩ませていた連続殺人事件は収束に向かっており、ようやくコナンの仕事は終わった。後は警察の仕事だ。コナンは急ぎ足で家へと急ぐ。早く哀に会いたかった。
 米花駅行きの電車は、春休みであることも手伝い、私服の学生が多く乗っていた。友人同士や恋人同士、あるいは塾に通っているのかリュックを背負って一人で参考書を開く学生。

「ありえないんだけどー」

 コナンのすぐ傍に立つ女子の内一人が、ハスキーな声で友人に愚痴を漏らしていた。

「この前付き合って一年の記念日だったじゃん? あたしなんてお揃いのキーケース買って、ケーキまで作ったのにさー、忘れてたって言うんだよ? ひどくない?」

 コナンよりも少し年上だろうか。流行に合わせた色の唇が可愛らしく恋人の文句を言っているのを聞き、いつもであれば聞き流すところを心臓をぎゅっと握りつぶされたように生きた心地がしなかった。
 付き合って一年の記念日? そういえば俺達が付き合ったのっていつだったっけ…?
 春の夕方の電車には西陽が射しこみ、やけに眩しい。人混みに酔ったのか冷や汗を感じながら、コナンは思考を回転させる。そもそもコナンと哀は順番が違うのだ。哀を大切だったはずなのに、近付きすぎると怖い癖に抱きしめたくて、距離感をはかれず、順番を間違ったのだ。泣いた彼女を抱きしめたのは冬だった。一緒に暮らし始めたのは、まるで今のように陽気な日差しを感じ始めた季節だった。電車の中の電光掲示板を眺めて日付を視界に入れ、脳が最大速に働くのを感じる。――ちょうど一年前だった。
 電車が米花駅に着くと、コナンは早足で改札を出て、駅前にある花屋に寄った。お揃いのキーケースを準備できないし、ケーキを作る事だってできない。だけど、彼女の儚い笑顔に似合う花を与えたいと思った。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開けた瞬間、花の香りが鼻腔をくすぐる。花言葉を思う。目の前に飛び込んできた真っ赤な薔薇。柄じゃないけれど、今日は記念日だ。コナンは赤い薔薇を手に取る。手の平に感じる刺すら愛おしい。
 何と言って彼女に渡そうか、くすぐったくなる感情を抑えながら、薔薇の花束を店員に注文した。



(2016.9.7)
申し訳ないのですが、警察階級には全く詳しくないのです…。10年後の高木さんが刑事なのか警部補なのか警部なのか、全然わからないので、おかしかったら脳内変換お願いします。