アニバーサリー ~And MORE~


 夕方に帰って来てすぐに仮眠した恋人は、夕食時になっても起きてこない。
 一緒に暮らし始めた頃は阿笠邸で食事をする約束をしていたものの、コナンの事件体質のせいで最近は週末だけ阿笠邸で、平日は工藤邸で食事をするようにしていた。それでも博士とはこまめにメールをするようにしている。博士なりに哀とコナンの生活を気遣ってくれているのだ。
 哀はコナンが作った味噌汁に加えた献立を作り上げ、煮物の入った鍋の火を止める。スリッパを履いた足で階段をあがり、寝室のドアをそっと開けた。

「江戸川君…?」

 部屋の奥で寝息を立てているコナンにそっと近づく。しっかりと布団を被って眠るコナンを見て、哀は足の底から沸き上がって来るような、締め付けられるような感情を自覚する。コナンの寝顔を見るのは久しぶりだった。一緒に暮らし始めた頃こそは新鮮だったはずの光景が、いつの間にか日常の一部となっていた。こんな穏やかな気持ちでコナンを眺めるのはいつ以来だろうか。
 あまりにもコナンが気持ちよさそうに寝ているので起こす事に戸惑っていると、

「――きゃっ!?」

 突然哀の視界が暗転した。
 間近にはつい先ほどまでは眠っていたはずの恋人の悪戯が浮かんだ顔。

「オハヨ」
「な、何…? 狸寝入りしてたの?」
「いや、今起きた」

 彼が寝起きだからかいつもより高く感じる体温に包まれる格好になる。コナンの手によって哀は身体ごと布団の中に引きずり込まれていた。床には無惨にも履いていたスリッパが落ちている。
 ちょうどコナンの肩あたりに顔をうずめる格好になり、コナンの腕によって身動きができないというのに、心地よく感じて悔しい。哀の思いをよそに、コナンは軽くあくびをし、仰向けになったまま哀の髪の毛を撫でた。

「あー…。おめーに触るの久しぶりだ」

 そしてコナンはいつだって、哀が思っていた感情を先に言葉にする。なおさら悔しい。

「なんかやらしー気分になりそー」
「……そんな事言う人にはご飯を出さないわよ」

 コナンの着るTシャツをぎゅっと握りながら哀が低い声でつぶやくと、コナンが軽快に笑い声を立て、寝返りを打った。その反動で哀の身体はコナンの上からずり落ち、二人して布団の中、向かい合うように抱きしめ合う姿勢になる。

「そうだな。先に飯食って、そのあと一緒に風呂に入ろう」



 キッチンには食欲を促す香りが漂っている。
 リビングに置いてあるチェストの上に飾られた薔薇を眺めながら、ダイニングテーブルに座って一緒に食事を摂り、コナンはいつも以上に饒舌に色々と話した。事件については守秘義務が発生する為ほとんど話す事もなく、主には春休み前の学校での出来事だった。
 それに答えるように、哀もぽつりぽつりと学校の様子を語る。あまり自分やその周辺の事を話すのは得意じゃないが、コナンとは別の高校に通う事もあり、そういう会話も二人の間のコミュニケーションツールとなっていた。
 夕食が終わり、コナンの言う通り一緒に湯船に浸かった。春の夜はまだ肌寒い。無自覚にも冷たくなっていた身体に、お湯が温度を教えてくれる。湯船に背を預け、哀が湯気の感触にほっとしていると、向かい側の湯船の背に同じようにもたれかかっているコナンがゆっくりと口を開いた。

「高木さんがさ……」

 どうやら春休みに入ってからの話らしい。事件の内容を詳しく語らない代わりに、付き合いの長い顔見知りの刑事の話をコナンが語る。哀は高木には久しく会っていないが、子供の主張にも分け隔てなく耳を貸してくれた高木の優しさは今でも覚えている。同じ警視庁捜査一課に所属する敏腕女刑事と結婚して何年経つだろう、と考えていると、コナンが両手を伸ばして哀の肩に触れた。そのまま引き寄せられ、コナンの身体に背を預ける格好になる。
 コナンと一緒にお風呂に入るのは久しぶりだった。哀としては顔を見て会話をしたいところだが、コナンはいつもこの体勢を好む。コナンの肌に触れる面積が増えて、コナンの長い腕に包まれて、コナンの表情は見えなくて、哀は落ち着かない。

「女の洞察力は侮れないってさ。奥さんはあの佐藤刑事だもんなー」

 笑い声まで浴室に反響し、一体高木が何を思ってコナンとそのような会話をしようとしたのか考える。

「それで? あなたはそれについてどう思ってるの?」
「どうって……」
「女を怒らせると後が怖いわよ」

 コナンの肩に頭を預け、上目遣いでコナンを見上げると、困惑した瞳に出会う。きっとコナンは高木と同様、気付いている。哀の本質を知っていて、見ないようにしている。女の機微に疎いという事はひとつの防御本能かもしれない。
 哀は昼間に会った歩美の言葉を思い出した。

 ――思っている事はちゃんと言わないとだめだよ。

 女の子のほうが成熟だ、とは誰が言い出したのだろうか。的を得ていると思う。自分よりも十歳も年下の子供達と一緒に過ごしてもうすぐ十年。元太や光彦にはまだまだ子供だと思える部分があるが、歩美が発する言葉には時々どきりとさせられる。
 お湯に浸かっていた手を上げ、蒸気によって汗ばんだコナンの頬に触れる。目が合うとキスを落とされた。

「…こんなキスで誤魔化せるなんて思わないで」

 揺れる水面の水音と共に体勢を変え、再び向かい合わせになり、哀はコナンの両肩に触れた。コナンは眉根に皺を寄せたまま、深くため息をつく。

「分かったよ。聞くってば」

 降参を示すようなその表情に、わずかに優越感を覚え、だけどそんな自分の顔を見られたくなくて哀はコナンの肩に額を寄せた。

「あなたが事件から逃れられない事は知ってる」
「うん」
「私を大事にしてくれている事も、知っているわ」
「……おう」
「でも、どんなに遅くなってもいいから、家に帰ってきたらちゃんと寝室で眠って」

 哀の言葉に、コナンが一瞬口をつぐんだのが分かった。

「…だけどそうしたらおまえが起きちまうじゃねーか」

 設置されている追い焚き機能により、常にお湯は循環している。人類による発明はこんなにも進化しているのに、どうして人の心はすぐに膠着してしまうのだろう。

「あなたが別の部屋で眠るよりはずっといい。あなたが帰って来たのかどうか分からない方が辛いわ」

 つぶやきながら、自分のわがままを知り、同じ体勢のまま哀は目を閉じた。まるで告白みたいで恥ずかしい。そうか、自分は寂しかったのだ。コナンに会えない日々が、無機質で、曖昧さに満ちていたのだと気付く。

「…悪かったよ」

 いつもよりかすれたコナンの声が、浴室に低く響いた。そして黙ったまま哀の背に腕をまわして抱きしめた。哀も両腕をコナンの首にまわす。お湯から出た肩と腕が冷えて行く感覚に気付いていたけれど、それでも一ミリの隙間もないくらいくっつきたいと思った。

「もっと…」

 無意識につぶやき、コナンが「何?」と聞き返す。

「もっとぎゅっとして」

 コナンがふっと笑ったのと同時に、背に触れる力が強まり、哀はほっと息をつく。それでも、事件への好奇心に負けるコナンを哀は好きだった。これもわがままだと思う。だけど、今日は一緒に暮らして一年目の記念日なのだ。
 今度は哀がキスを仕掛ける。汗ばむ額は湯気によるものか、高まる熱によるものか。言葉以外のコミュニケーションを交わす二人の浴室にはもう、揺れる水面の音とわずかな吐息以外は何も聞こえない。



(2016.10.29)