わずかな振動を感じて、哀は薄く目を開けた。
「…悪い、起こしたか?」
眼鏡をかけていないコナンが哀の頭を軽く撫でて、哀と同じベッドの中に身体を潜らせた。大丈夫、と答えようとしたが、まだ脳が眠っている状態で声にならず、哀は軽くかぶりを振って目を閉じる。
コナンが読書に夢中になって夜更かしをすることは日常茶飯事だ。隣の阿笠邸で夕食が摂り、工藤邸に戻った後に新しい本に手を出したらもうコナンはその世界から離れることは出来ない。哀がシャワーを浴びている間も学校の宿題をしている間もお構いなしで、その集中力はすさまじく、哀が「先に寝るわよ」と声をかけても届かない事が多々あった。
一緒に暮らし始めた頃こそ、翌日もある学校の事や哀の声も届いていない事に哀も困惑したものだが、それも三回も続けば慣れてくる。今日もいつものようにおやすみなさいと声をかけたところで彼は顔をあげることもなく、哀もそれに対して何を思うわけでもなく、いつものようにベッドに入ったのだ。
それでも読書に区切りをつけてシャワーを浴びたコナンがシャンプーの香りをさせながらベッドに入ってくるのに気付くと哀は無意識のうちに安堵していた。
哀は寝返りを打ってコナンの方に身体を向けた。するとコナンが顔を寄せて哀の身体を抱き寄せる。その腕の重みが心地よく、哀は目を閉じたまま小さくつぶやいた。
「どんな話だったの」
「え…?」
もう眠っていると思ったのだろう、コナンは突然の哀の問いに訊き返してきた。
「読んでいた本」
コナンが読んでいた本が少し前に流行ったミステリー作家の新刊であったことを思い出し、哀がつぶやくと、コナンは哀の髪の毛を指で弄びながら話し始めた。
パラレルワールドが存在する話だ。
一人の女を二人の男が好きになってしまうんだけど、一つの世界では主人公の男はその女に片思いして、親友と女が恋人同士。もう一つの世界ではその女は主人公と付き合っているんだ。
人の自信のなさや、それでも守りたい自尊心からそのパラレルが生み出されてしまった、とても悲しい話だよ。
夜に似合った、少しトーンの落としたコナンの声を聞きながら、哀は自分のことを思う。
コナンがずっと、それこそ生まれた時から一緒にいた幼馴染を想っていたことを知りながら、哀は恋に落ちてしまった。
もしコナンが工藤新一に戻る事ができたら、まずは帰るべき場所に帰っただろう。それを想像するだけで哀は身がちぎれるように心を痛めるけれど、きっとそれが現実だと諦めていた。本来はそうであるべきだったはずだ。
だけどコナンは工藤新一に戻ることもできず、その恋心と折り合いをつけて、今こうして哀の隣にいる。幼馴染の彼女は、死んだと言われた工藤新一への恋心をどのように消化したのだろうか。それこそパラレルワールドを生み出すほどの悲しみがそこにはあったはずだ。
「その世界を作った人は、本当にその女の人を愛していたのね」
哀がつぶやくと、コナンは小さくうなずいた。
「俺も、おまえが別の男を選んだらそうなるかもな」
何気なくつぶやかれたコナンの言葉に、哀は目を開けた。すぐ目の前にある悲しそうなに微笑んだコナンの顔に出逢い、哀は目を逸らす。
「哀は?」
「え?」
「俺が離れたら、そのくらい悲しんでくれるか?」
きっと今のコナンはその本によって感傷的になっているのだろうと哀は思った。だからそんな事を問うのだ。
――私はそんなことで悲しんだりしない。
決意にも似た気持ちでそう答えようとした。自分には悲しむ権利などない。それを言葉にする前に、コナンは哀を抱き寄せる腕の力を強めて、
「悲しんでくれよな」
そう囁いた。
「まぁ、そんなことありえねーけど」
自嘲するように笑い、コナンは目を閉じる。その途端、夜の静寂さが二人を襲う。
「…私が別の男を選ぶ事だって、明日地球が滅びる事よりありえないことだわ」
哀がコナンの広い胸に顔を押しつけながらつぶやくと、コナンは小さく笑い、おやすみ、とつぶやいた。
幼い頃から夜を過ごすのはいつも一人だった。そしてそれを当然だとも思っていた。だから隣に心の許せる相手が一緒に眠ることが日常になった今をとても不思議に思う。
きっとコナンが自分の傍を離れたら、まずはこの夜を失ったことを寂しく思うだろう。コナンの寝息を感じながら、哀はコナンを抱き返すようにして再び眠りの世界へと落ちて行った。
(2015.4.13)