この世に数え切れないほど落ちている恋の中のほんの一部に触れてきたけれど、どれもがまやかしだった事に気付いた。
6.Another Moonlight
教室のドアを開けると、騒がしかった空気がしんとした沈黙に包まれ、代わりに新一は多くの視線を浴びる事となった。
「おはよー、新一君!」
入口からさほど近くない場所に立っていた園子の声がその沈黙をかき消し、それによっておずおずと教室内の空気が再び動き出した。
「おはよ……」
新一は鞄の紐を握りしめて教室内に入る。机の前に立つ園子の影から、蘭がそっと顔を覗かせた。
「……おはよう、新一」
「おはよう、蘭」
あちこちからの好奇の視線に晒されながら、蘭が恐る恐る新一を見上げた。――大丈夫、俺は何も気にしていない。晒されている事に慣れているはずの新一は何でもないふりをして、蘭に挨拶を返す。蘭がほっと肩を落としたのが見えて、新一はそっと視線を逸らした。
ロスでの撮影から帰って来て、一週間が経っていた。写真集の編集作業などを名目に、帰国してからもなかなか登校しなかったが、いよいよ母親からの叱咤が入り、ようやく重い腰をあげて学校へとやって来たのだ。
以前に会った時よりも蘭の頬がほっそりしたように思う。嫉妬と羨望の混じり合う教室で、彼女は一体どんな思いをして、新一がいない間にもこの教室に通っていたのだろうか。
彼女は大切な幼馴染だ。守れなくてごめん、と心の中で言葉を並べながら、新一は自分の席の椅子を引っ張り出す。だけど、どんなに綺麗事を言ったところで、自分がこの手で守れるものなんて一握りなのだと知った。
昨年に撮影した映画『時を止めて』の公開日が近付いていた。舞台挨拶で、新一は共演した俳優達と並んでカメラの前に立つ。
「工藤さん、毛利さんとは会っていますかー!?」
作品とは関係のない野次を、新一は笑顔で交わす。多くのフラッシュが視界を襲い、瞼の裏がちかちかした。
『時を止めて』は、新一がイケメン俳優だと呼ばれてから少し経った頃に撮影した、高校生の恋愛映画だった。一人の女子高生と二人の男子高校生が織りなす青春の恋模様。――工藤新一っていつも同じような役ばかりだよね。公開日に近付くにつれて増えていく悪意は言葉を変えて、いつも自分に降りかかる。
「おーっす、工藤」
舞台挨拶が終わり、楽屋で衣装であるジャケットを脱いでいると、ノックと共に映画の共演者である俳優が無遠慮に入ってきた。今年の一月から三月までのドラマで大阪弁の探偵役を演じていた、本物の大阪人だ。
「服部、もう舞台挨拶は終わっただろ。何の用だよ?」
「つれへん事言うなや。この後空いてたら飯でも行かへんか?」
『時を止めて』でのもう一人の男子高校生を演じる服部平次は、演技では器用に標準語を話す事はできるが、オフモードでは生まれ育った大阪弁を手放さない。先ほどの舞台挨拶でも、関西人らしいノリで観客を笑わせていた。それは彼の特技のひとつだ。
「工藤君は渦中の人だし、有希子さんが許さないんではなくて?」
唐突に第三者の声が響き、新一は服部と一緒になって肩を震わせ、勢いよく振り向いた。
「びっっっ…くりしたー…。なんだ小泉さんか……」
「なんや紅子、音もなしに入って、びびったわ」
クラスメイトである三人の紅一点、女子高生を演じる小泉紅子が、腕を組んで壁に寄りかかって立っていた。気配を消していたのか、勘のいい新一ですら彼女が楽屋に入って来ていた事に気付かず、新一は動揺を隠しきれない。
「小泉さんも、飯一緒に行くか?」
共演者とはいえそこまで親しいとは言えない間柄だが、会話の流れでしどろもどろ新一が笑顔を作ろうと、紅子はふっと意味ありげな笑みを浮かべた。
「工藤君、あなたは昨年とは変わったのね」
整った黒髪を細い指で撫でるように梳いた紅子は、新一の脳内を透視するような瞳を向ける。
「……昨年?」
「撮影をしていた頃とは全然違う顔つきをしているわ」
白い壁と床で出来上がっている楽屋は、照明をそのまま反射していて、舞台の上で浴びたフラッシュを新一は思い出す。
「恋をしているのね。お相手は、世間が思っている方ではなさそうですけれど」
それじゃ、と紅子は言い、そっとドアの向こうへと消えていった。長い黒髪をなびかせて。
「……相変わらず、よう分からん奴っちゃなー」
ぼりぼりと頭を掻いて、キャップ帽を被り直す服部の横で、新一はただ閉じたドアをじっと見つめる。そうだ、紅子の言う通りだ。
「服部……」
これまでもいくつもの恋を演じてきたけれど、それがまやかしだと分かるくらい、自分はこの感情を持て余している。
名前を読んだ新一に、服部が訝しげに視線を向けてきた。新一は無機質なド白いドアを見つめたまま、小さくつぶやいた。
「俺、好きな人ができたんだ」