夕方になっても強い西陽が肌を焦がすようだ。舞台を共演する俳優のスケジュールに合わせて、今日は早い解散となった。公開まで一ヵ月、共演者は志保よりもテレビでの活躍が多い俳優だ。
「おかえりー」
自宅に戻り、リビングへのドアを開けると、今朝にはここで眠っていた人間がソファーに寄りかかり、白いラグの上に座っていた。
「工藤君……。まだいたの」
近付いて見ると、新一の手にはどこから引っ張り出してきたのか、見覚えのある台本が握られている。
「だって俺、下手に外に出られないし」
「有希子さんは、あなたがうちにいる事を知ってるの?」
鞄をソファーに置きながら訊ねると、新一は肩をすくめ、志保を一瞥した後ですぐさま台本に視線を落とした。答えたくないという事か。新一と母親の関係は外から見る限り良好ではあるが、世間でイケメン俳優ともてはやされている息子が元共演者の女の家に転がり込んでいる事実については、知った日には難色を示すだろう。
志保は嘆息し、寝室に入って部屋着に着替え、再度リビングに入る。肩元まで伸びた髪の毛がうっとおしく、片手でまとめるも、その手を離せばまた首元にまとわりついた。
「工藤君、何か食べたの?」
「ううん。宮野の家を勝手できねーし、これ見つけたから、夢中で読んでた」
そういえば劇団時代の台本を一部、テレビ台の横に積み重ねていた。アキコを演じる上で似たような役が出ていたものを段ボールから探した事を思い出す。
「ストーリーが巧妙で面白いよ。台本作るのも劇団員だったのか?」
テレビドラマで突然準主役を得た代償に、自分が劇団出身であることをメディアで話す事はあった。しかしそれはあくまで事実のみで、その概要を志保は口にしないし、そこから先は事務所からもNGが出ている。
「……そうね」
「へぇ」
何事もなさそうに新一は台本を両手でパタンと閉じ、フローリングの床の上に立ったままの志保を見上げた。窓から入って来ていた西陽は少しずつ低くなり、やがて夜がやって来る。志保は新一の視線から逃れるように室内の照明を付け、カーテンを閉めた。
「宮野」
新一の眼差しはいつもまっすぐだ。いつか黒羽が言っていたように新一にはところどころ不安定な部分が見受けられたが、それでも仕事に対しては純粋に向き合っていた。
「俺、ロスでの撮影の合間に、ハリウッド俳優の赤井さんに会ったんだ」
だからこそ、新一は世間からの評価に揺れている。彼の心には触れることはできないが、志保はもうそれを求めない。
「赤井秀一。宮野を知っていた」
その代わり、例え新一にも志保の傷に触れて欲しくなかった。ソファーに寄りかかる新一を一瞥し、志保は過ぎた時間を思う。
「私も知っているわ」
高層マンションではないはずなのに、まるで外の世界と隔離されたように、ぴんと張り詰めた空気に耳が痛んだ。
「死んだお姉ちゃんの恋人だったもの」
誰にも触れさせないはずだったのに、言葉はさらりと喉元から零れ、何よりも志保自身が驚いた。戸惑いながら視線を迷わせ、恐る恐る新一を見る。まっすぐな視線に出会うと、新一が立ち上がり、志保の前に立った。ヒールも履いていない部屋の中、新一との身長差がダイレクトに伝わる。
「ごめん…」
低い声がぽとりと冷たい床に落ちた。
「辛い事を、話させた」
新一の手のひらが志保の髪の毛に触れた。新一の指が志保の茶髪を梳くように動く。事務所の命令で短くする事もできない髪の毛の長さに救われた気がした。
移動劇団といっても、劇団を運営するうえで事務所は東京にあり、本部は劇団運営以外にも資産運営を行っていた。その頃の志保は、稽古と並行して義務教育にも追いつかなければならなかった。
「あらシェリー、学校の宿題?」
オッズアイを持つキュラソーと呼ばれる劇団員が、事務所の室内に入り、面白そうに志保の隣の椅子へと腰をかけた。
「学生も大変ね」
「放っておいてよ」
「地学の原理を学んだところで、シェリーちゃんはその知識をどう扱うの」
宮野志保と書かれたノートの表紙を、細い指がそっと捲る。彼女は劇団員の中でも一番の歌唱力を持っていた。
「知識を得るうえで、無駄な事なんて一つもないわ」
志保は教科書を見ながら、知識を整理する為にノートに文字を書き続ける。
できるだけ学校には通うようにしていたが、地方で劇場が公演される場合にはやむなく欠席をせざるを得なかった。もともと志保は学校を好きではなかったので、都合がよかった。狭い教室の中で息苦しい思いをするくらいなら、テントといえど舞台の上で自分でない誰かを演じるほうがずっと心地よかったのだ。
「ところで聞いた? ライの話」
机の上でノートを閉じたキュラソーが、銀髪を掻きあげて机に肘をつき、オッズアイでじっと志保を見た。
「ライ?」
「劇団幹部に許可もなくハリウッドデビューをした彼よ。あなたが忘れるわけないわよね?」
「……久しぶりに聞く名前だわ」
志保は教科書から目をあげる。いつも黒いニット帽をかぶる長髪の男を、志保はあまり好きにはなれなかった。姉の恋人だからだという、ただの嫉妬心からくる感情であることは自覚している。
「今、そのライが事務所に来ているらしいわ」
「何をしに、事務所に…?」
「さぁ。もしかしたらアケミと婚約でもしたのかもね」
志保の姉である宮野明美は、志保ほど移動しながら活動する劇団員ではない。だからと言って無関係でもなかった。本当にキュラソーに言う通り、明美はライこと赤井秀一と結婚するのだろうか。
でも、だけど――。志保は何も聞いていなかった。
「シェリーちゃんも騒ぎに巻き込まれたくなかったら、一度退散したほうがいいんじゃない」
椅子から立ち上がったキュラソーは、志保を一瞥し、部屋から立ち去る。もう志保の頭に教科書の内容は入って来なかった。