その後、ライターの佐藤美和子には、来月出演する舞台についていくつか質問を寄せてきた。いくつも取材を受けている志保にとってそれらの質問は、『ムーンライト』のものよりもずっと答えやすく、用意していた言葉を話す。楽な方へと流れていく自分自身は、とてもつまらない人間だと思う。
こういう時、新一ならどのように答えていくのだろうか。テレビでの活動が長い彼は、取材にも慣れていた。業界でも話題になるほどの活字中毒と言われているので、語彙力にも長けているのだろう。もっとも、彼の父親は世界的に有名な推理小説家だ。
「それでは宮野さん。貴重な休憩中にご協力頂きましてありがとうございました。雑誌に載りましたらまたご連絡します」
ボブショートの黒髪をさらりと揺らした佐藤が会釈をし、稽古場を去って行った。彼女もきっと殺伐とした世界で生きているのだろう。彼女のまっすぐとした背筋を目で追いながら、志保はそんな事を考える。
マネージャーの阿笠博士の運転するビートルの助手席で、志保は渋谷の景色を眺める。スクランブル交差点に設置されている巨大広告からはいつの間にか自分の姿は消えていた。
「志保君、今日はすまなかったのう。急に取材が入ってしまって…」
博士の声に、志保はハンドルを握る博士の太い指をじっと見つめた。
「別に、構わないわ」
「佐藤君はいい編集者じゃよ。君もそう思ったじゃろう」
今日会った女性ライターを思い出し、志保は視線を博士の横顔に移す。
「知ってるの?」
「昔からお世話になっていてのう。ワシらも信用している編集者じゃ、安心せい」
彼女の凛とした声を思い出した。いくつも受けている取材の中で、佐藤の言葉の間の取り方は印象的で、時々心の奥底を暴かれる感覚に襲われた。博士の言う通り、信用されている優秀なライターなのだろう。
ふと、エンジン音に混ざって、膝の上に置いた鞄の中でスマートフォンが震えた。志保は鞄からスマートフォンを取り出し、登録されていない番号に眉をひそめ、どこかで見覚えのある十一桁の番号にはっと息を飲んだ。
「もしもし……」
悪い予感が胸を襲うのに抗えない感情を、志保は知っている。
『宮野、久しぶり』
それは予感通り、二週間前に聞いた声だった。
ビートルから降りた志保がマンションのエントランスに入ると、エントランス横にあるロビーに座った彼は背中を丸めて手に持った文庫本に夢中になっていた。
「工藤君……」
外の湿度は違い、空調の効いたエントランスはひんやりと涼しい。志保の声に、ソファーの上に小さなボストンバッグを置いた工藤新一が顔をあげ、志保の姿を見るなりキャップ帽を取った。
「宮野!」
まるで少年に戻ったような顔で、新一が笑う。
「ありがとな。俺、なんだかんだ話題の渦中のヒトだから、家に帰れなくてさ」
「やっぱり、あの報道を知ってたのね……」
「当然だろ」
すっと立ちあがった新一が、ボストンバッグを持って志保の後をついてきた。いつものエレベーター、いつもの廊下。だけど新一がいるだけで空気の濃度が変わるようだった。
「あなたのマネージャーはどこにいるの」
「ああ、本来は俺、明後日帰国する予定だったんだよ。でもマスコミ対策で、俺だけ先に帰って来たんだ」
つい先ほどの、博士の車に乗っていた志保への着信。案の定、新一からの電話だった。二週間前と同じようにこのマンションへとタクシーでやって来て、しかもエントランス横のロビーに座って待機するなんて、危機感がないにもほどがあるが、意外に帽子を深く被り背中を丸めて本に夢中になる彼は、芸能人のオーラを放たない。
「荷物少ないのね」
「残りは全部事務所に送るように手配しているから」
志保がドアを開けると、お邪魔しまーす、と新一が遠慮がちに鞄を玄関に置く。靴を脱ぎ、キャップ帽を手に持った新一が、ようやく疲労を見せるようにソファーに背を預けて白いラグの上に座った。
「意外に普通の部屋なんだ? セキュリティーは大丈夫なのか?」
「あなたと違って私は売れている俳優ではないから」
特に皮肉を言ったつもりはない。オートロック付の1LDK。都内ではそれなりの家賃だ。
「でもドラマ以降、声かけられるようになっただろ? 気をつけろよ」
スキャンダルを撮られたあなたに言われたくない、と志保は思うが、口には出さない。知りたくない真実はある。
新一は部屋に持って入った鞄から、小さな紙袋を志保に寄越した。
「何よ、これ」
「お土産。ロスに行って来たんだ」
「撮影だったんだっけ? 工藤君ほどの人になると、写真集のロケ地も海外になるのね」
受け取った紙袋の中には、アメリカブランドの化粧品がいくつか入っていた。有希子が選んだものに間違いなさそうで、志保は複雑に思う。国内で人気俳優と知られる工藤新一の、残念な部分に触れた気がした。だけど、テレビで見る彼の姿よりも、ずっとこちらのほうが人間らしいと思った。
「別に、色んなことがあったし、あっちにツテもあったから行っただけ。大したことじゃない」
新一はソファーにもたれかかるようにして目を閉じている。志保は受け取った化粧品を持ったままキッチンへと向かい、コーヒーを淹れる。外の暑さは変わらずとも、空調の効いたこの部屋は快適だ。快適な、志保だけの空間のはずだった。そこに存在する工藤新一の存在はどう考えてもこの部屋に調和しない。
「工藤君、今日は泊まるの?」
いつかの夜を思い出す。
「うん、そうしてもらえると助かる」
だけど、もう勘違いしてはいけない。
ついにソファーの上に転がった新一が、ゆっくりと目を開けて、コーヒーカップを持った志保を見上げた。