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 覚悟が必要な恋だというのなら、こちらから願い下げだ。



5.Black Pearl



 志保が所属していた劇団ブラックパールは、移動劇団を名乗っていたが、名が知れ渡った頃には専用劇場を建設する計画も立っていた。

「シェリー、私は辞めるわ」

 キャンピングカーのすぐ傍で煙草をふかしながら、ベルモットという芸名を持つ女が言った。

「辞める? 演技力も劇団一のあなたが簡単に辞められるの?」

 それは志保が十三歳の頃のことだ。劇団に所属していたせいで、志保はまともに義務教育を受けていなかった。志保の疑問に、ベルモットは唇を歪めて笑う。

「辞められるわよ」
「でも…、劇団はこれからもっと大きくなるって、お姉ちゃんも言ってたわ」
「あら、アケミがそんな事を?」

 志保の姉である宮野明美は劇団員ではないが、同じように演技を学んでいた。東京に住む彼女に会う事が、志保にとっての楽しみだった。だから早く劇団が都内に劇場を作る事を夢見ていた。そうすればきっと、生活も落ち着いて、普通の人と同じような生活を送れるはずだった。

「シェリー、分かっていないわね。だから辞めるのよ」

 左手で長い金髪を掻きあげながら、ベルモットは空を仰ぐように顔をあげた。空はどこまでも青く、きっと世界に続いている。知識としては分かるのに、志保には想像がつかなかった。
 狭い世界で生きている事に気付いていても、そこから逃げ出す方法を志保は知らなかった。



 テレビドラマ『ムーンライト』で注目を浴びた志保には、予想以上に取材の依頼が入っていた。しかし以前から決まっていた舞台の仕事もある為、スケジュールを調節しながら取材を受ける事が多かった。

「雑誌アクトナビの佐藤です。休憩中にお邪魔します」

 綺麗に揃えた両手で名刺を渡された。佐藤美和子というライターの名前を確認し、志保は顔をあげる。稽古の休憩中、スタジオの端で座りこんでいた志保に、佐藤はスカートの裾に気をつけながら膝をついた。

「宮野志保です。よろしくお願いします」

 志保は座り直し、台本を床に置いて両手で名刺を受け取る。

「では、お時間も限られているので、さっそく」

 佐藤は手際よくボイスレコーダーを取り出し、膝の上にメモを置いた。受け取った名刺のやり場の分からないまま、志保は緊張を覚える。取材には今も慣れていない。

「『ムーンライト』の放送も終わり、注目されている宮野さんですが、その後何か変わった事はありますか?」
「特に…。時々コンビニで声をかけられるくらいです」
「それってすごい変化だと思うのですが。先ほど舞台稽古も見学させて頂いたのですが、ドラマで準主演に抜擢されて、それが評価されて注目を浴びていらっしゃる割に、とても冷静ですよね」
「そう、ですか…?」

 志保が首をかしげると、佐藤はふっと柔らかく微笑んだ。ボブショートカットの黒髪がさらりと耳元で揺れるのが見えた。とても知的な印象だ。

「テレビドラマへの出演は初めてだったと聞きますが、それまでの経歴をお聞きしてもいいですか?」
「はい…、子供の頃は、移動劇団で全国を回りながら活動していました」
「その劇団名を聞いても?」
「あの、…ごめんなさい」

 おずおずと志保がうつむくと、佐藤はさらりとノートのページをめくった。

「それでは今のはオフレコということで」

 あまりにもあっさりとした声に志保が顔をあげると、佐藤は目を細めた。

「他にも聞きたい事はたくさんあるので。主演の工藤新一さんとのシーンが多く、塾講師とその生徒という関係での恋愛を描いた作品でしたが、演じる上で工藤さんとのやり取りに苦労した事はどんな事でしたか?」

 工藤新一。取材を受けるたびに何事もなかったように語られる固有名詞。志保は最後に見た彼の表情を思い出す。

「マモルが強引にアキコにアプローチをするというシナリオだったので、緊迫した雰囲気というのは、工藤さんが作ってくれました。工藤さんの切迫感がとてもリアルで、私は圧倒されて流されないように気をつけました」

 アキコを演じていたのがはるか昔に思えた。確かに彼女の魂は自分の中にいたはずなのに、やっぱり他人だったのだと突きつけられたようで、わずかな痛みを覚えた。
 工藤新一がロサンゼルスに渡ってから二週間が経っていた。初めこそワイドショーで盛り上がっていた熱愛報道も、別の話題に隠れつつあった。
 遠い記憶にあった五歳の新一の表情と、二週間前の彼がシンクロした。