某インターネット百科事典からの引用。
ブラックパール(Black pearl)は日本の劇団。19××年に結成、テントを劇場とするいわゆる移動劇団として日本国内各地で活動していたが、20××年に起こった事故により、事実上解体した。
手に持ったスマートフォンの画面をスクロールしていく。更にその下に記載されている事に新一は考え込んだ。
劇団員の芸名はカクテルやワインなどの名称とされていた。
移動劇団。テント。そして酒の名前。心にひっかかり、新一はベッドの上にスマートフォンを投げ出し、目を閉じる。
新一は子供の頃から探偵が好きだった。父親が書く小説が何よりも好きで、だから五歳にして探偵役に抜擢されたのは夢が叶ったような高揚感に包まれ、主役である江戸川コナンという少年が新一自身に憑依した。
それでも撮影の合間に耳に飛び込んでくるのは、自覚ない大人たちの悪意そのものだった。どんなに言葉を覚えていても、物怖じしなくても、新一はたったの五歳で、しかも母親が有名な元女優でマネージメントに携わっているのだから、誤解されても仕方なかったのかもしれないし、もしかしたらそれが真実だったのかもしれない。
工藤新一は親の七光り。
そう言われないように必死になって演技力を身に付けたし、大人に負けないように処世術を学んだつもりだ。だけど新一の努力もむなしく、悪意を持った言葉達は小さな新一を襲っていた。
ドラマの撮影で訪れた地方都市の隅にある自然に包まれた高原を新一は秘密基地と呼び、母親にも告げずに撮影の合間に忍び込んだ。小屋も道具も何もない、ただ緑が広がっているその場所だけが新一の心のよりどころだった。
その場所にたった二回だけ入り込んだ少女を新一は忘れない。彼女はシェリーと名乗った。
聞き慣れない名前だったが、日本人離れした彼女の名前について新一は特に気に留める事もなかった。たった今まで。
「なぁ、赤井さん。宮野の事を知ってるって、どういうことだよ」
海岸からシボレーに乗って連れてこられたバーで、新一はアイスコーヒーを飲みながら隣に座る赤井にまくし立てた。つい二時間前の話だ。
「言葉の通りだ」
「赤井さん、劇団出身って言ったよな? もしかして、宮野が昔いた劇団と関係あるのか?」
バーボンをロックで舐めるようにして飲む赤井は、薄く笑う。
「驚いたな、ボウヤが彼女の出身を知っているなんて。日本では詳しく明かしていないだろう」
全く驚いていない口調で笑う赤井に、新一は苛立ちを募らせた。
「誤魔化さないでよ、赤井さん。俺、あいつの事を知りたいんだ」
ロックグラスの中で丸い氷が音を立てるのを横目に、新一はただ赤井の横顔を見た。黒いニット帽に黒いTシャツ、有名なハリウッド俳優のわりにファッションには無頓着のようだが、自分よりも背の高いその横顔には俳優そのもののオーラが漂っている。
「それは何故なんだ?」
赤井の声が薄暗い照明のこの空間に静かに溶け込んだ。カウンターに座っているのは新一と赤井のみで、他の客はテーブル席に数組、顔を寄せ合って酒を飲んでいる。
「何故って…?」
「ボウヤが彼女の事を知りたい理由だよ」
「それは……。ほら、宮野とは恋人役で共演した仲だしさ!」
瞬きをしながら新一が明るく言い放つと、赤井は煙草ケースから煙草を一本取り出し、口にくわえた。
「ホォ、なるほど。ボウヤは共演した女優に対していちいち興味を持つんだな。知らなかった」
「違う!」
思わず声をあげてテーブルを叩くと、店内に沈黙が走った。沈黙を浴びた新一は我に返り、カウンター越しに立つバーテンダーに英語で謝る。
その様子を面白そうに眺めていた赤井は、煙草をふかしながら、言った。
「ブラックパール。俺と宮野志保が所属していた劇団の名前だ。調べてみるといい」
それがつい先ほどに聞いた話だった。
五歳の新一は今以上に負けず嫌いで、決して人前で涙を流さなかった。それでも耐えられない時はあの秘密基地で悔し涙を浮かべた。
シェリーと名乗る少女に見られてしまった焦燥感で、全てをぶちまけた。そのあと、彼女はまるで聖母のように微笑み、新一の中に募った葛藤を溶かした。自分と同じ年頃の少女のはずなのに、その温かさは静かに新一の心に入り込んだ。
それを恋だと思った。誰にも話していない淡い恋心は、その後二度と彼女に出会えない事実を知り、少しずつ消え失せていった。だけど、その想いこそが新一にとっての初恋だった。