その少年に出会ったのは、まだ劇団が小さく、テントで移動をしていた頃だ。
都会では蒸し暑くなる季節でも、高原にあったその場所に吹く風は涼しく髪の毛を揺らした。志保はこっそりとテントを抜け出し、広場を駆け、やがてちょっとした高台を見つけた。志保は六歳だった。
足を怪我しないように草木をかき分けながら登って行く。少し視線が高くなっただけで、辺りを一望できた。月と星で照らされた地面は広く、世界は未知のものに溢れていた。
呼吸を整えながら下界を俯瞰するように眺めていると、やがて人の気配を感じ、志保は身をこばわらせた。
「…だれだ?」
志保と同じように登って来た少年は、志保よりも小柄で、まっすぐな瞳で志保を見つめる。
「そっちこそだれなの?」
「わたしは…、ちかくのげきだんでショーをしているの。あなたは?」
志保が先に身元を明かし、相手に同じように求めると、少年は硬い表情のまま視線を逸らした。
「ねぇ、ここはあなたのひみつきちなの?」
そう問うと、途端に少年は目を輝かせ、志保に近寄った。
「ひみつきちだって、なんでわかったんだ? ここには小屋もハシゴもないのに」
「だって、こんなすてきな場所、だれにも知られたらいけないもの」
空に視線をあげれば星達が降ってきそうなほどの、普段生活をしている場所とは別空間だった。そういえば劇団の活動が休みだった頃、両親にプラネタリウムに連れて行ってもらったことがあったが、それよりもはるかに魔法のような場所。
草むらの上に座り志保の隣に、少年も座る。Tシャツに半ズボンに、赤いスニーカー、夏にしては涼しいこの場所で、その格好は寒くないだろうか。
「ここはおれが見つけた場所だから、おとなにはひみつな?」
「ひみつ?」
「うん。かわりに、これをあげる」
そう言って、彼はワン、ツー、スリーと声をあげ、その途端彼の小さな手の平には一粒のキャンディーが現れた。魔法のような、一瞬の出来事に志保は目を見張る。
「すごい。あなたはまほうの人?」
「あはは、ちがうよ。やくそくのしるし」
そう言って、少年は小さな手で志保の手の平に、キャンディーを乗せる。近くで見ると、彼の瞳は青く輝いていて、彼の正体は夜空に浮かぶ星なのではないかと思った。
「なぁ、おまえの名前は?」
風が彼の前髪を揺らす。志保も長い髪の毛を片手で押えながら少年を見る。
「ひとに名前を訊ねるときは、さきに名乗るのが妥当じゃなくて?」
少し前の公演で使ったセリフをそのまま使うと、少年は面白そうに笑った。
「おれは、……キッド。かいとうキッド」
「へんな名前。わたしはシェリー」
「おまえもへんな名前だな」
目を細める少年を見て、彼は自分よりも年下かもしれないと志保は考えた。でも、それなら一体どこの誰なのだろう。
怪盗キッドという名前は、聞いた事のあるものだった。子供向けに作られたアニメの主人公の名前だったからだ。
都会の深夜の景色は、昼と違って人も少なく、ネオンライトが煌々と輝いていて人の手によって作られた宝箱の中に沈んでいるみたいだった。
「そうか、有希子ちゃんがそう言ってたんじゃな…」
愛車であるビートルを運転しながら、博士が言う。ちなみに博士と藤峰有希子の付き合いは長いらしく、有希子が現役の頃から知り合いらしい。
「有希子さん、どうして今頃こんな事を話したのかしら」
志保が劇団出身である事は、メディアで明かすようにされているが、ホームページには記載もない。そもそもその劇団の終わり方は決していいとは言えなかった。キャストの役名は全員、酒の名前だった。稽古が辛い事もあったが、全ての出来事が不幸だったわけじゃない。だけど付随してくる美しい思い出を彷彿させないように、できるだけ志保の中で過去を閉じ込めている。
家族は、劇団と一緒に消えてしまった。
「うーん。あの子は昔からいい子じゃからのう。脅しているわけじゃないはずじゃ」
新一のマネージャーを務める有希子との初対面はまだ記憶に新しい。ドラマ撮影の初日、私服姿の工藤新一の隣で、有希子は名刺を差し出して来た。名刺をもつ指もとても綺麗で、だけど家事をしている手だった。彼女は工藤新一の母親なのだと一瞬にして志保は理解した。
ドラマの撮影が難航しても、新一が多少不機嫌になっても、それを包み込むようなおおらかな優しさ。それは以前志保が体感したことある愛情と同じだった。今の志保にはもう手に入れられることもないけれど。
「とりあえず、ネットで拡散したりする心配はないかしら。工藤君にも話さなさそうだし」
上等なシートにもたれながら窓の外の景色をぼんやり眺め、志保はつぶやく。女同士の秘密だとウインクした有希子を見て、志保は思い出した。
ひとつの秘密。幼い頃の秘密基地での出来事。彼に会ったのはたったの二回だけだった。
秘密基地を見つけた翌日の夜も、彼はそこにいた。
「かいとうキッド…?」
偽名だと分かっていても教えられた名前を呼ぶと、体操座りしていた彼の肩がぴくりと動く。しかし昨日の雰囲気とはまるで違い、志保は恐る恐る彼に近付き、様子を伺った。
「どうしたの…? どこかいたいの?」
志保に気にも留めずに彼はただじっと、歯をくいしばるように前を見据えていた。口元がふるふると震えている。
「ないているの…?」
「うるさい…」
昨日よりも低い声で、うなるように彼は言った。たかだか五、六歳の少年が醸し出す雰囲気でもなく、志保は彼に触れようとした手をびくりと止める。
そういえば今日の彼は眼鏡をかけている。サイズの合っていない黒縁眼鏡は、なおさら彼を大人っぽくさせていた。レンズ越しに彼は志保を睨んだ。
「どうせおまえも、ほかのやつらと同じなんだろ…?」
「ほかのやつらって?」
「おれが…、おれが今の立場にいることも、必死に努力して手に入れたものも、全部、親の七光りだって思ってんだろ?」
「ななひかり…」
昨日とは別人のように大人っぽい話し方をする彼に戸惑いながら、志保はつぶやく。七光り。知っている言葉だったが、身近で使う言葉ではなく、志保は少々考え込んだ。
彼は何者なのだろうと、ようやくそこで気に止まった。少し離れた広場には、志保の劇団で公演するテントが張っていて、志保が生活するキャンピングカーがある。じゃあ、彼はいったいどこから来たのだろうか。
「七光りっていうけど、あなたはじぶんでそう思うの…?」
志保が静かに問うと、少年は膝を抱えていた腕を解き、体勢を変えて志保をまっすぐに見た。
「そんな風に思うわけない!」
「なら、きっとそれがせいかいなんだわ」
志保はそっと彼の肩に触れた。恐らく自分の身長よりも低いだろうその肩には彼の強い意志が籠っていて、それ以上は迂闊に近付けない。
彼は意外そうな目で志保をじっと見つめたあと、目を見開いた後でうつむいて瞬きを繰り返した。こういうシーンを知っている、と志保は思う。泣きそうになるのを堪えて誤魔化す表情だった。
「おれは……」
今夜は満月だろうか。この星全てを吸い込みそうなほど強い光を放つ丸い月が、彼の顔を明るく照らす。
「おれは負けない。…絶対に負けない」
レンズ越しに映る瞳は、やはり星のように輝いていた。彼の言葉に、志保は必死にうなずく。
大人達と生活をしていると嫌でも気付く。きっと彼も理不尽な出来事にもがいているのかもしれない。抱きしめたいと思った衝動を堪え、ただ彼の手を握りしめた。
丘の上の少年に会ったのは、その夜が最後だった。