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 名前がないという事は曖昧で、これ以上ないほどの甘い蜜に思えた。



2.No name



 フロントガラスの向こう側、大都会のスクランブル交差点にあるビルに飾られた写真。どこかで見た事がある顔だなぁとぼんやりと思っていたら、俳優である工藤新一と女優の宮野志保だった。テレビドラマ『ムーンライト』の巨大広告だ。
 すでに半分ほどの話数が放送されているドラマだが、視聴率はまずまずと言ったところらしい。さすが工藤君視聴率王だねこれからも期待しているよ。周囲の声が耳の中でこだまして、それを取り払うように新一は浅く腰かけていた助手席のシートで座り直す。

「どうしたの、新ちゃん。寝てたんじゃないの?」
「別に……」

 運転をする有希子の声に、新一は不機嫌に答えた。
 眠れない日が続いている。ドラマの放送開始時は生放送番組に引っ張りだこ、番組宣伝の為なら寝る間も惜しまないというスタンスで仕事が入れられていたが、今は少し落ち着いているはずなのに。
 今日のスケジュールは、これからドラマの収録で再びスタジオに缶詰めだ。いつかの狭いベンチで志保の肩に寄りかかって眠った数分間を思い出す。



 アルバイト塾講師と生徒の恋愛ドラマ。なんて青臭い内容だと思った。
 子供の頃は色々な役をこなしてきたが、最近はイケメン俳優ともてはやされ、世の女性受けする役ばかりしている。新一は焦っていた。

「おはよう、工藤君」

 着替えを終えている志保は、ベンチから立ち上がっていつもの調子で新一に声をかける。言葉こそタメ口だが、彼女の後輩としての態度は文句のつけどころがない。

「おはよ、宮野」

 自分より一歳年上の彼女に初めて会った時、頬の白さに目を奪われた。無名の新人女優を相手にする、青臭い恋愛ドラマ。正直、甘く見ていた。

「工藤君、また寝てないでしょ。大丈夫?」

 眉を潜めて話す目の前にいる彼女は、生徒である自分に翻弄されていたはずだった。なのに、最近は自分が惑わされている。彼女の色香漂う雰囲気に。キスシーンを語ることすら、顔を赤くしていたくせに。

「工藤君、宮野さん、シーン54に入りまーす」

 スタッフの声に、新一は台本を預けて、セットの中に入った。



  自分が彼女の生徒じゃなくなる日を心待ちにしていた。試験が終わった夜、マモルはアキコの部屋に訪れた。

 「いらっしゃい」

  ワンピースにショールを羽織ったアキコが、マモルを出迎える。

 「試験お疲れ様、マモル君」
 「……ありがとう、センセイ」

  会いたかった。彼女に夢中になりすぎたら負けだと思った。自分には夢があって、その為には勉強をしなければならなかった。だけど大学に入学してしまえば、少しは彼女に近付けるのだろうか。
  マモルは靴を脱ぐのも忘れて玄関先でアキコを抱きしめる。ほのかな甘い香りに脳が躍った。感情が溢れてやまないのに、離したい事はいくつもあったはずなのに、言葉が浮かばない。ただ脳裏を支配するのは、アキコに触れる事ができたというこの感触だけだった。
  ようやく靴を脱いで、部屋の奥にあるベッドに二人して倒れ込む。隙間のないくらいアキコを抱きしめて、彼女の唇に触れた。くすりとアキコが笑う。

 「…なに笑ってるんだよ」
 「だって…、おかしいんだもの」
 「何が」
 「分からない」

  そう言って、アキコはマモルの髪の毛に触れる。首元に触れられた時に、ぞくりと身体の芯を電気を走った感触を受け、マモルは何度もアキコにキスを落とした。



 彼女の隣で目を覚ます事ができたら、どれだけ幸せだろう。

「工藤君」

 はっと我に返った。

「工藤君、起きて」

 現実と夢の境目が分からない。もっと言うと、撮影の中と外の違いが分からない。新一は柔らかな感触を確かめながら、ゆっくりと目を開ける。目の前では志保が新一の顔を覗きこんでいた。腕の中には安堵する体温、つまり新一は志保を抱きしめたままだった。

「え…、あれ? 俺、どうしてたっけ?」

 思わず志保から離れて、ベッドから起き上がる。

「センセイ……?」
「マモル君、あなた今一瞬寝ていたわよ」

 志保は可笑しそうに新一の髪に触れる。ベッドに横になったことで乱れた髪の毛を直してくれたのだろうか。ああ、もう撮影は終わっている。遠くで監督の声を聞いた気がする。
 混乱する新一をよそに、志保はベッドから降りる。スタジオの照明は相変わらず眩しくて、新一は目をこすった。

「工藤君、よかったよー。ラブシーン、ドキドキしたよ!」

 台本を持った監督が、満面の笑みで新一に近付いてくる。
 柔らかな唇の感触を思い出した。このままマモルはアキコに触れて、次のシーンはベッドの中でアキコと会話をするシーンだった。それでこのドラマの撮影は最後になる。
 新一は途中の記憶が曖昧だった。マモルが初めて本気で好きになった塾講師は、一筋縄ではいかない。本当はもっとマモルが引っ張るはずだったのに、今ではアキコに振り回されている。
 志保の演技に食われていると思った。でも、誰もそんな事を言わない。志保よりも先に新一を称賛する。それがひどくもどかしく、傷ついた。



「はい、カット! これで撮影すべて終了しました! お疲れ様でしたー!」

 ベッドのシーツにくるまってアキコと会話をするシーンを全て撮り終え、監督の声があがる。スタジオ内では拍手が鳴り響いた。

「お疲れ様でした!」
「工藤君、お疲れ様でした!」
「宮野さんもお疲れ様!」

 新一と志保は並んで花束を受け取り、カメラを向けられた。ドラマの公式ホームページ内で載せる写真用だろう。何度かシャッターを切られた後、志保に向いた。

「お疲れ様、宮野」
「お疲れ様でした。ありがとう、工藤君」

 礼なんて言われる筋合いなどない。好きな映画や本の話をしても、彼女の口から恋愛モノの話はいっさいなく、その演技も苦手だと弱々しく言っていた頃の彼女はもう目の前にいない。きっと宮野志保はこれからどんどん有名になっていくだろう。
 他の俳優とのラブシーンを演じる事もあるのかもしれない。そう思うと、胃のあたりがずんと重くなった。これは仕事で、彼女も仕事の相手で、それ以上何もないというのに。
 彼女の肩に頭を預けて眠った一瞬を忘れられない。彼女の隣で眠る事ができたら幸せかもしれないと思った。触れ合わなくていい。ただそこにいるだけで、それだけでいい。

「工藤君、今夜打ち上げに出るでしょ?」

 色とりどりの花束を持ったまま、志保は微笑む。彼女には花束がとてもよく似合っていた。

「ああ。宮野もだろ?」
「ええ、お世話になった皆さんにご挨拶をしなくちゃ」

 花の香りが鼻腔をくすぐる。アンバランスに様々なセットがされているスタジオ内で、花はとても色鮮やかだ。

「打ち上げの後、俺の家に来ない?」

 撮影をし始めたばかりの頃、恋をした事があるのだと志保は言った。その話の先を聞いてみたいと思った。新一の提案に、志保は目をぱちくりとさせた。