②3-4

 彼女が泣いているのであれば、今すぐにでも駆けつけなければならないと思った。しかし。

「駄目です」

 事情を説明した新一に、有希子は容赦なく言い放った。予想外な返答に、新一は戸惑う。

「なんでだよ? 今、俺が言った事分かってくれただろ?」
「分かったわよ。分かっているけれど、あたしの立場としてほいほい新ちゃんを行かせるわけにはいかないでしょう」

 前方から走って来るハイビームライトが眩しくて、新一は目を細める。同じように眩しかったのか舌打ちをした有希子が、ギアチェンジをする。

「あいつ、泣いていたんだぜ?」
「志保ちゃんだって子供じゃないんだし、マネージャーの阿笠さんだっているし、問題ないでしょ」

 先ほどの電話で、志保はただ助けて、と言っただけだった。だけど、彼女がそうやって新一を頼ってきた事は初めてだった。それは、三か月前の夜の影響も大きいのではないだろうか。新一が望むのであれば志保は新一のものになるらしいが、本当にそうであれば、新一は責任をとらなければならなかった。

「母さん……」

 助手席に座ったまま、新一はスマートフォンを握りしめる。

「俺、あいつの事が好きなんだ……、あいつを守りたいって思うんだ……」

 有希子が反対する理由を、新一は理解しているつもりだ。志保を下世話なスクープの餌食にするなどあってはならない。多くのものを守れないと知った新一ができるたった一つの事は、彼女から離れる事だと頭では分かっている。なのに、新一の心は矛盾でできている。危ない橋を渡るようにして彼女の隣を歩いた。彼女の部屋に訪れた。今、涙を流しているであろう彼女に会いたくてたまらなかった。
 新一の言葉に返事をしないまま、有希子はしばらく運転を続ける。エンジン音と、車内に流れるラジオの音だけが小さく響いた。やがて、車が減速し、駐車可能な路肩へと泊まる。

「新ちゃんのマネージャーとしては反対です。去年の夏に志保ちゃんの家に泊まった事だって、許したわけじゃないのよ」

 ハザードランプが一定リズムで鳴り続ける中で、有希子がハンドルから手を離してゆっくりとつぶやき、新一を見る。その表情には、仕事中にはあまり見る事のない温かさが混じっていた。

「でも、母親としては応援したい気持ちもあるのよ。新ちゃんが仕事や勉強ばかりで普通の男の子のように暮らしていない事を、あたしも優作も心配していたから……」

 撫でられる指の感触に、これは母親の愛情だったのかと新一は知る。有希子はそのままジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、どこかに電話をしていた。新一はただぼんやりと、それを見ていた。



 再度、車を発進させた有希子が次に停車させたのは、先ほどの場所からさほど遠くないホテルの前だった。

「なぁ、母さん」

 シートベルトを外しながら、新一は訊ねる。

「何かを手に入れようとしたら、何かを失う事になるのかな」

 後部座席に置いていたキャップ帽を取り出して被っていると、隣で有希子が小さく笑う。

「それはどうかな。世の中の真理だと言われたらそれまでだけど、それだけで完結するほど、人生は短くないわ」

 有希子の言葉に新一はうなずき、外に出る。夏の空気に胸が詰まりそうになりながら、ホテルの正面玄関を歩く。高層階に向かうために乗ったエレベーターから降りて猫背で歩く。誰ともすれ違うことなく、指定された部屋の前に立ち、ノックをすると、ゆっくりとドアが開いた。

「工藤君……」

 涙に濡れた彼女の顔を見た瞬間、自分の中で何かがぷっつんと切れる音がした。衝動的に細い身体を抱きしめる。

「ごめん……」

 被っていたキャップ帽がカーペット地の床へと落ちる。

「来るの遅くなっちまった……」

 新一の言葉に、志保は新一に抱きつくようにして更に泣いた。



 俗に言うスランプだった。
 今日の撮影で志保は何度もリテイクを繰り返してしまい、挙句の果てに監督を怒らせてしまい、スケジュールを組み立て直してしまう事になったという。

「何の撮影? ドラマ?」
「プロモーションビデオ」

 二人掛けのソファーに座った志保がタオルで涙を拭いながら答え、新一はああ、とうなずく。歌手の曲に合わせて作られるビデオのシーン撮影は、セリフがない分難しい。

「出演するのが私と、もう一人の俳優だけだったからどうにかスケジュールの調整がついたけど……。迷惑をかけた事に変わりないわ……」

 新一は志保の隣に座って、志保の髪の毛に触れる。
 二人で身を潜めるツインルームは、静けさで包まれている。先ほどの車内で、有希子が志保のマネージャーである阿笠に連絡をし、ここで落ち合う事になったのだ。結局志保を守っているのは自分ではなく、理解ある大人達である事を思い知らせた。

「工藤君にも迷惑をかけてごめんなさい……」

 肩を震わせて志保は謝るけれど、新一にとって彼女に頼られた事実が胸を熱くする。

「志保。まずは歌詞と、プロモで使われるシーンの確認をしようぜ。おまえなら大丈夫だ」

 ほんの一瞬だけ志保の肩を抱き寄せる。持てる力を共有していくように、呼吸を合わせる。そしてゆっくりと身体を離し、正面から志保を見つめる。

「俺が、おまえの傍にいるよ」

 白い頬に指をなぞらせながらつぶやくと、志保は再び泣いた。