大学生になれば生活はさらに慌ただしくなるかと危惧していたが、高校生の頃とさほど変わらなかった。むしろ受験勉強をしていた頃のほうがずっと忙しかったように思う。
瞬く間に季節が移り変わり、テレビドラマのクールがまたひとつ変わった。世の中の人々の着る服装が完全に夏服に変わった七月。
「そういえば新ちゃん」
打ち合わせ先であるテレビ局に向かう途中の車内で新一がコーヒーを飲んでいると、唐突に有希子が話を切り出した。
「宮野志保ちゃんは元気?」
突然の固有名詞に、新一は飲みかけていたコーヒーでむせて、咳払いをする。
「な、なんだよ……、突然……?」
「去年の夏だったかしら、新ちゃん、志保ちゃんのお家にお世話になったでしょー?」
今頃になってその話題を持ち出すとは、母親なりの葛藤があったというのだろうか。新一にとって初めてであり偽りでもあるスキャンダルが世に出回り、ロサンゼルスでの撮影から帰国した後の日々。志保の家に泊まったのは、たった二晩だけだ。
「あれから会ってないの?」
正面を向いたままハンドルを握る有希子にさえ、誤魔化しは通用しない。彼女はマネージャーであり、母親だった。
「……会ったよ、二回だけ。宮野の舞台を観に行った時と、俺の舞台を観に来てくれた時」
「新ちゃんの舞台! まだ最近の話じゃない」
新一と遠山和葉が主演の『キセキの音』は五月に千秋楽を迎えた。そこに志保が現れる事はなかった。そしてよく考えてみれば、彼女と連絡先を交換したわけではない。一度調べた彼女の電話番号に連絡をした事があるので、遡れば手段はあったが、それでも新一としては必要もないのにその番号を使う事はできず、おそらく彼女にとっても同じなのだろうと思った。もっと言えば、志保には新一に連絡をする気持ちすらないのかもしれない。
何の約束もしていない状態のまま、最後に会った日から三か月以上が過ぎていた。
「ははーん、ママ、やっと確信しちゃった」
車は打ち合わせ先であるテレビ局の地下駐車場へと入っていく。途端に視界が変わり、新一は視線を落とす。
「確信って……、何だよ」
「それは教えなーい」
やがて車は完全に駐車され、新一は助手席から降りる。地下特有の埃臭さが鼻についた。
「母さん……」
蒸し暑さに汗を拭いながら有希子を呼ぶと、トートバッグから取り出したスケジュール帳を取り出した有希子が新一を見る。母親の身長を追い越したのはいつだっただろうか、と新一は考える。もしかしたら、志保は有希子よりも少し背が低いかもしれない。彼女の身長を思い出せるくらい、今でも彼女を感じる。
「母さんは、なんで女優を辞めたんだ?」
初めての質問を投げかける。ずっと以前から、それこそ子供の頃からの疑問だった。
藤峰有希子は結婚を機に引退したと世間ではいわれている。しかし、真実なんて本人達にしか分かり得ないのだ。
有希子は母親のように柔らかく笑い、新一の肩を叩く。
「時間がないわ。急ぎましょう」
――はぐらかされた。新一は舌打ちをし、ただ有希子の背中をついていく。
有希子は、本当に新一の父親である工藤優作との結婚を機に引退したというのだろうか。当時、優作と付き合っているとスクープされた有希子は、酷い手紙を送り付けられたり嫌がらせがあったりしたという噂さえ存在していた。
この世界に生きる者の宿命なのかもしれない。一年前、新一と付き合っていると噂をされた毛利蘭もそれなりの中傷を受けていた事を新一は知っている。もう二度と人を傷つけたくないと思った。だから、志保に同じ傷を負わせるわけにはいかない。頭では理解しているつもりだった。
新一は有希子と一緒にテレビ局のエレベーターへと乗り込んだ。これから夏に放送される二時間ドラマの打ち合わせだ。
堅苦しい打ち合わせと衣装合わせが終わり、新一は有希子の後について再び駐車場に向かう。
受験勉強と舞台出演を名目に長い事テレビドラマへの出演を控えていた為、久しぶりに味わう空気だった。今度出演するドラマの主演は新一ではない。主演になると番宣などで忙しくなり、大学生活に支障をきたすからとテレビ局や有希子の計らいもあった。しかし、打ち合わせには昨年まであまりテレビで見る事もなかった若手と呼ばれる新一と同じ年齢くらいの俳優が揃っていて、新一は気後れした。ライバルは増え続けている事を、身をもって知った。そういえば、志保がドラマデビューをした年齢だって十八歳だった。
「いいドラマになりそうね」
車のエンジンをかけながら、有希子は言う。
「新ちゃんの役も、面白そうだわ。直接愛だの恋だのに関わらないし、新ちゃんも少し気持ちを楽にしたらいいんじゃない?」
やがて車がゆっくりと発進し、地上へ向かうために斜面を走る。シートに背中を預ける重力が増す。
「……気付いていたのか?」
「当然じゃない。あたしは新ちゃんの母親で、マネージャーなのよ」
やがて出た外の景色は、夜のものへと移り変わっていた。
結局有希子が芸能界を引退した本当の理由を知らずじまいだ。調べたところでゴシップ並の真実からかけ離れた情報が数多く存在する事も知っている。だからこそ、新一は有希子の口から聞きたいのに、聞けなかった。
志保が自分を選ばない理由がそこにあるというのであれば納得ができる。何もかも手に入れられるほど、世の中は甘くない。
フロントガラスから見える空は遠い。数々のネオンに酔いそうだった。いつか黒羽快斗の助手席から見た景色を思う。きっと、ここは自分にとって光が多すぎるのだ。
ふと不自然な振動を感じた。カーディガンのポケットに入れっぱなしにしていたスマートフォンが鳴っているのだ。表示された十一桁の数字に身に覚えがあり、新一は生唾を飲み込む。
「――出ないの?」
隣から有希子が訊ね、新一は恐る恐る画面をタップしてスマートフォンを耳にあてた。
「もしもし……?」
『工藤君……』
新一の予想通り、スピーカーから聞こえてきたのは、今新一が着ているカーディガンを三か月前に返して来た当の本人だった。一年ほど前に使った番号が生きている事に、新一は動悸を覚える。
「どうした……?」
彼女自身からの電話など、天と地がひっくり返ったってありえないと思っていた。しかし、通話口の向こうでの彼女の空気に異変を感じ、新一は声を潜める。
「志保……?」
スピーカーの向こうで、志保はしばしの沈黙の後、つぶやいた。
『工藤君、助けて……』
それは、聞き覚えのある涙声だった。