白い蛍光灯がカチリと音を立てて光る。
「そろそろ引越しの話とか、事務所から何か言われたりしねーの?」
慣れた足取りでリビングのソファーに寄りかかった新一が、苦笑気味に言った。繁華街からしばらくの間歩いた後、二人でタクシーに乗った先は志保の部屋だった。志保が上京してから住み続けている1LDKに新一が訪れるのも、二回目だ。
「どうして?」
「この部屋だとセキュリティーが心配だ」
トレンチコートを脱いだ新一が、そのままソファーに顔を伏せるようにして目を閉じる。志保も上着を脱いで、寝室にあるクローゼットにかける。新一のトレンチコートもかけるべきか迷ったが、敢えて口に出さなかった。
新一は先ほどと同じ体勢のまま目を閉じていた。四月から舞台公演が始まったのと同時に、彼は大学生生活もスタートさせている。忙しいはずだった。
志保はキッチンでコーヒーを淹れ、スマートフォンを確認する。明日のスケジュールは、新しく撮影するCMの打ち合わせから始まる。三月から担当している某化粧品ブランドのイメージキャラクターに抜擢されてから、CMの仕事が増えていた。志保はため息をつく。仕事の有無は死活問題だ。ありがたいと思う。だけど――。
そこまで考えた時、コーヒーメーカーが音を立て始め、はっと我に返った。キッチンからリビングを覗くと、新一は相変わらずの姿だった。二つのマグカップにコーヒーを注ぎ、それを持ってリビングに入る。
「工藤君」
志保が呼ぶと、新一はぱちりと目を開けた。疲れた表情とは裏腹に、澄んだ瞳の色だった。
「そんな所で寝たら風邪をひくわ。コーヒー飲む?」
時計は午後十時を指していた。志保がカーペットに膝をついてマグカップをテーブルに置くと、新一がゆっくりと起き上がった。カフェインの香りで頭が少し冴えたみたいだ。志保も新一の隣に座り、同じようにカフェインを摂取する。
先ほどの道端での会話を思い出す。俳優として生きている新一が、いくつもの恋に疲れていると訴えた。思えば、『ムーンライト』を撮影した頃の彼も、同じように思い詰めた表情をしていた。彼の中には今もマモルという名前の少年は生きているのだろうか。
「工藤君は、大学では何を勉強しているの」
時計の針が静かに動く。静まり返った部屋の中でも時間が刻まれている事に、志保は安堵を覚える。マグカップを両手で持った新一が、視線をコーヒーに向けたまま口を開く。
「法学」
端的に一言だけ述べられたその答えを、志保は知っている気がした。読書家でもある新一は、雑学に長けている事でも有名だった。いつかの彼の口ぶりから、俳優というより探偵みたいだという冗談を言った事を志保は思い出す。
――仮に俺が探偵だったら、こんな風に朝っぱらから訳わからねー電話しておまえを困らせたりしない
あの朝の出来事が脳裏をめぐり、志保は新一を連れてきた理由を思い出す。立ち上がって寝室へと入る。クローゼットの中にある収納ケースから、折り畳まれたグレーのカーディガンを取り出した。
「工藤君、さっき言っていた借りていたもの、返すわ」
志保は男物のカーディガンを適当にショップ袋に入れて、新一に渡した。カーペットに座ったままの新一は、戸惑ったようにそれを受け取る。
「律儀だな。捨てといたらよかったのに」
「そんなわけにはいかないって言ったでしょ」
再び新一の隣に座った志保を、新一が怪訝な顔をして見た。彼の持つ紙袋ががさりと鳴る。
「……なぁ。さっきの居酒屋で、何があったんだ?」
四人でグラスを鳴らした個室居酒屋での出来事。微動だにしない新一の横から逃げるように、志保は廊下へと出た。白熱するトークをきっかけに、志保は記憶の中を巡っていた。
「幼かった頃の事を思い出したの……」
外でかけられていた新一の黒縁眼鏡は、遠慮がちにマグカップの隣に置かれていた。志保の隣で、新一がはっと息を飲み込んだのが分かった。
「それは、前に言っていたおまえの家族の事か?」
「それもあるし、仲間もいたのよ」
志保は今日観た舞台を思う。ピアノ弾きの少年少女の恋の物語。天才と呼ばれる彼らは、現世を生きる事さえままならない。それはきっと新一も同じだった。
静寂さが漂う。時計の音だけが規則正しく響く。志保は膝の上で手の平をぎゅっと握る。
「おまえの初恋って……」
カフェインの香りが漂う中で、声を出したのは新一だった。
「黒羽のラジオで言っていた事が本当なのか?」
ややかすれた声に、志保は言葉を失う。聴かれても構わないと思っていた。しょせん昔の話だ。だけど、彼の口から初めて、あの場所について触れられた事に、希望と失望、二つの感情に襲われた。
そこは、志保にとって最も聖域な場所だったから。
「本当よ」
志保は震える声で肯定する。すると、新一はほっと息を吐き、くしゃりと表情を崩した。今日初めて見る、彼の笑顔だった。
「宮野」
それでも、以前とは違って新一は志保に触れようとはしない。一定の距離を保ったまま、膝を抱えるようにしてカーペットの上に座り直し、新一は志保を向いた。
「俺は、今も昔もおまえが好きだ」
泣きそうな笑顔に、志保は現実を知る。簡単に手に入れられる恋ではない事を、きっと新一は誰よりも知っていた。