②1-1



 甘い毒を浴びてまっとうできる人生は、案外幸せなものかもしれない。



1.Sweet pain



 三月最後の木曜日深夜。カーステレオからはラジオが流れている。

『改めましてこんばんは、今宵もミラクルな世界へようこそ、黒羽快斗です。
 冒頭でもお話しました通り、今夜は女優の宮野志保さんをお迎えしていまーす』
『よろしくお願いします』
『では、志保ちゃんにもメールが届いています! ラジオネームいちごちゃんより、「快斗君、宮野さん、こんばんは。快斗君のミッドナイト三十回目に宮野さんが来ると聞いて、驚きました。キャラのタイプは別の二人ですが、何か共通する事ってありますか?」 ……いちごちゃん、メールありがとう。はい、しょっぱなから難しい質問が来ましたね』
『私と黒羽君と共通点なんてあったかしら』
『志保ちゃん、その調子でバサバサ切りこんで行こう!』

 ラジオからは快斗の笑い声が軽快に響く。
 もうすぐ四月だというのに、深夜の車内の空気はまだ冷たい。新一は助手席で首に巻いたマフラーに顔を埋める。

「そういえば新ちゃん、前に黒羽君にお世話になったのよね」
「えー……、いつの話だっけ?」
「あら、もう忘れたの? 卒業式の前日よー。いきなり新ちゃんが幕張に行くから、ママ驚いちゃった」

 ハンドルを握りながら少女のように高いトーンで話す有希子に対して、新一は半月前の事を思い出す。東京湾から見える景色。海に浮かぶアクアライン。しばらく電車に乗って揺られていけば別の世界に行けるはずだったのに、自分の生きる世界は思ったよりもずっと狭い。

「黒羽君も凄いわね。まだ若いのに、テレビもラジオもレギュラー持っていて。それで高校もちゃんと通ったっていうんだから、苦労したでしょうねぇ」

 とうにネオン輝く場所からは遠ざかり、有希子の愛車が新一の住むマンションの前へと着く。

「おやすみ、新ちゃん。明日も朝からお稽古だから、遅刻しないようにね」

 運転席に座る有希子が、軽く新一の頭を撫でる。母親としてもマネージャーとしても信頼している手の平のはずなのに、新一は物足りなさを覚える。もうずっと、物心がついたときから。



 部屋に入って、なんとなく鼓膜に残っている声が心地悪く、スマートフォンでラジオを繋ぐ。そこには先ほどと変わらない世界が繰り広げられている。

『どこをどう考えても志保ちゃんと俺って共通点ないよね』
『私は黒羽君みたいに言葉を巧みに使ったりしないし』
『あっ、ちょっと待って志保ちゃん、それ失言だから! 俺が巧みなのはマジックだけだから』

 スピーカー越しに聞く二人の声は、実際に聞くものよりも遠く聞こえた。リビングのテーブルにスマートフォンを置いたまま、新一はコートを脱ぐ。
 そういえば幕張から帰ってきた日、快斗はこのリビングに布団を敷いて寝たのだった。たった半月前のことなのに、ひどく遠い昔のことに思えた。高校の制服に最後に袖を通した日の前日。

『それでは次のメールでっす。ラジオネームきらきらひかるちゃんから、「黒羽君、宮野さん、こんばんは。お二人に、初恋について語って欲しいです」……はーい、きらきらひかるちゃんメールありがとう。唐突な質問が来ましたねぇ』
『スタッフさん達のニヤついた顔が見えるけれど』
『恨めしいデスワネェ。思わずオネエ口調になりましたヨ。志保ちゃん、初恋って何歳の時だった?』

 電波が悪いわけではないのに、スピーカーからの音はざらりとした雑音が混じっているようだ。

『六歳です』
『えっ、即答。答えていいの?』
『子供の頃の事ですし』
『あー……、マネージャーの阿笠さんからもオーケーサイン出ていますねぇ。めちゃくちゃ興味あるんだけど、相手の子ってどんな子だったの?』

 ほとんど空である冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ペットボトルごと口に含む。

『そうですね……。幼いながらに世界の終わりを見たような、それでいて自分を怪盗キッドだと名乗るような、ヒーローに憧れた男の子でした』

 がたり、と足元で落ちたペットボトルが大きな音を立てた。零れた液体がフローリングに立つ新一のスリッパを濡らしていく。

 ――おれは、……キッド。かいとうキッド。
 ――へんな名前。わたしはシェリー

 記憶が遥か彼方に存在する草原へと巡っていく。自分のテリトリーに入り込んだ少女は、確かに宮野志保で間違いない。その事実は特に言葉に落とす事もなく、確かめ合う事もなく、ひっそりと心の奥底に隠していたはずだった。
 フローリングの上では表面張力に敗れた水たまりが広がっていく。

「宮野……」

 混乱するのを抑えるように、新一は濡れた床へと座りこんだ。足元が一気に冷えていく。

「俺の初恋は、おまえなんだよ……」

 息もできない場所に閉じ込められたような感覚に、もうラジオの音は聞こえない。