Six in the morning


 カーテン越しに部屋を照らす光を感じて、哀は目を覚ました。隣で眠っていたはずの新一の温もりはない事に気付き、ゆっくりと視線を動かすと、デスクチェアに座った新一が何かを読んでいるようだった。

「工藤君」

 思いのほか声をかすらせた哀の声に気付いた新一が、ゆっくりと顔を向ける。

「おはよう、哀。もしかしたら起こしちまったか?」

 手に持っていたのは、哀が使用していた薬物動態の資料だったようだ。それを机に置いてゆっくりとベッドに寄った新一に、哀は首を横に振る。カーテン越しの光はまだ淡いもので、日が明けてからそんなに時間が経っていない事を知る。

「ずいぶんと早起きなのね」
「そりゃ、誰かのおかげで規則正しい生活をしていますので?」

 屈託なく笑った新一は、ベッドの端に腰をかけて、哀の髪を梳くように撫でた。引越しを機に離れて暮らす際、新一は哀に約束をしたのだった。くれぐれも身体に無茶をしない事、この命は哀がくれたものなのだと、新一は笑った。
 新一の言葉は、正しいようで少し違う。確かに寝る間も惜しんで研究をして新薬の開発に携わったが、もちろん新一一人の為に莫大な研究費をかけられるほど大学も企業も温情を持つわけもなく、難病とされていた疾患と新一の症状が一致していただけの、偶然に近い開発だった。だから、新一の為だけに働いたと言ったら、きっと嘘になる。
 新一もそれを知っていて、それでも敢えて哀のおかげだと言う。歪んだ形で関係を持った自分達を繋ぐ唯一のもの。許されない過去を抱えたまま、一緒に生きたいと思った。

「今、何時?」
「六時前。さすが六月、外はすっかり明るいのな」

 ベッドから立ち上がった新一がカーテンをゆっくりと開けた。レールの音とともに、室内が明るくなる。新一の言う通り、窓の外ははっきりとした光が空を青く映し出していて、昨日の雨模様の気配はもうどこにもなかった。
 哀もベッドの上で起き上がり、窓の外を見つめる。しばらく論文続きで、まともに空の色を見る事もなかったように思う。工藤君、と考える間もなく、哀は無意識のうちにつぶやいていた。

「少し、散歩をしたいわ」



 この辺を歩くのは初めてだな、と新一は言い、哀の手を取った。自然と手を繋ぐ形となり、むず痒い気持ちになるが、昨日の駅での抱擁を考えたら、どんな大胆な事でも許される気がした。日曜日の午前六時、人の気配はほとんどない。
 澄んだ空気が街路樹の葉を揺らしている。まだ太陽は昇りきっていないのに、新緑が眩しい。すぐ横の大通りを、乗客の少ない始発のバスが大きな音を立てて走っていった。
 今夜もう一泊した後、新一はこれまで通っていた大学病院に久しぶりに受診するという。久しぶりに横田先生にも会えるな、とつぶやいた新一は、何もかも見据えていながらも、何も言わない。世の中には、言葉にしなくてもよい真実がある。

「そういえば先日、歩美ちゃんに会ったよ」
「歩美に? どうして?」
「偶然。米花駅の改札近くだったかな、歩美ちゃんから声をかけてくれて。すげー大人になってて驚いた」

 俺もオジサンになるはずだよな、とつぶやく新一に、哀は小さく笑う。

「当然でしょ。私ももう成人済みの、大人だわ」

 哀が言うと、新一は複雑そうに、そうだよな、とうなずいた。
 六月の風が夏の香りを運んでくる。十五歳からずっと、哀はこの街で暮らしている。自分の年齢はあやふやだ。時々、自分がもう三十歳を過ぎた人間であると錯覚してしまう。自分がまだ二十一歳だなんて信じられない瞬間もある。何かに取り残されそうになった時、新一の姿を思い浮かべる。そして今はもういなくなった、眼鏡をかけた少年の姿を思い浮かべる。
 太陽が昇る東の空とは反対側に、月がまだ薄く輪郭を保っているのを見つけ、新一とそれを見上げる。夜と朝の境界に二人きりで立っている。鮮やかな色をまだ持たない街の中、一瞬でもここが孤島である事を願う。新一と過ごした時間は、これからの日々に色を持たせてくれるだろう。
 幸せという言葉を簡単に口にする事はできない。温もりに触れてしまった時、代わりに何かを差し出されるような胸の痛みを伴う。恋をするという事は、心を繋げようとする事だ。もう離れる事はできない。
 隣を歩く新一のお腹が小さく鳴り、二人で笑い合った。

「腹減ったな、コンビニでも行くか」
「それなら、近くにベーカリーショップがあるわ。もう開いていると思うけれど、行ってみる?」

 哀の提案に、そうしよう、と新一は笑った。
 太陽の位置が少しずつ高くなっていく。鮮やかな六時の空が街へ光を与えていく。何度も踏み越え続けるボーダーライン。今日という一日は、まだ始まったばかりだ。



タイトルは東方神起の曲よりお借りしています。
(2020.10.14)