Six in the morning


 取り壊されるアパートの部屋を引き払った日も、雨が降っていた。
 寂しさを吐露したのは、新一ではなく哀が先だった。部屋のほとんどを占めていた新一の荷物は東京に送られ、七年ほど使われていた家具類も処分された。哀の新居用には、数日前に新一と出かけた際に選んだ家具が揃えられていた。
 駅で新一と別れ、荷解きを済ませた部屋に戻った時、慣れない室内の空気も、耳に入っている雨音も、鼻についた段ボールの香りも、実際のものから切り離されたような感覚で、哀は戸惑っていた。足裏にあるフローリングの感触すら偽物のようで、自分の身体がどこにあるのか分からなくなった。
 自分が自分でなくなる感覚。古いアパートの部屋のベッドの中でぽつりと語った新一の姿が、頭から離れない。
 ここは孤島でもない。ましてや、遮断された世界でもない。雨の降り続く景色の向こうにも世界はひとつの面の上に成り立っていて、自分が独りではない事を哀は知っているはずだった。
 それでも、雨音の響く部屋の中にただ一人、束ねられた段ボールを横目にフローリングに座り込む自分は、きっと昔から変わっていない。新一の温もりも、新一の声も、ここには届かない。新一との暮らしは夢だったのか、と疑った哀は慌てて鞄の中からスマートフォンを取り出した。そこには新一からメッセージが届いていて、ほっと胸を撫で下ろした。すぐにでも電話したくなる欲求を押さえて溢れ出したものは、涙だった。
 新一に与えられていたものは、簡単に言葉にできない。だけどそれは確かに存在していて、哀は新一の存在に救われていた。一緒に過ごした六年間は、確かに温もりの通っていた時間だったのだ。



「何を考えてる?」

 指先に触れた肌の感触と共に、耳元に低い声が落ちてきた。窓の外では相変わらず雨が音を奏でていて、空調のつける必要のない季節、あとは自分達の息遣いだけが室内の暗がりに生々しく響いて、それが尚更欲情に火をつける。
 新一の問いに何か答えようとすると、唇で言葉ごと封じ込められた。たった二か月と少し前の、雨の日の事。そう答えたら、新一は笑うだろうか。もっと集中しろ、と怒るかもしれない。これまで数えきれないほど身体を重ねてきたというのに、今でも新一の心を探るのは難しい。
 先ほどに覗いた時と同じ、青みがかった瞳が哀の姿を映している。新一の中に息づいている世界。一冊の本を出した後の新一は、何の未練もなくライター業を廃業した。物を書き始めたのは時間が余っていた事と、以前入院していた病院の精神科医に勧められただけで、自分にとって必要不可欠なものではなかったのだと新一が話したのは、引越しで大量の仕事道具を処分した時だった。
 人は生死の境を経験すると人格が変わる場合がある、と何かの本で読んだ事を哀は思い出す。本の中に綴られた言葉が本来新一の中に息づいていたものか、はたまた後天的に新一の心に落とされたものなのか、哀にとってはどちらでもよかった。どんな形の道筋を辿って来たとしても、哀が好きだと思える相手は、目の前にいる新一だけだ。

「哀」

 いつの間にか汗で額に張り付いていた前髪を、新一が掬っていく。ぼんやりと目を開けると、何かを堪えるような、真剣な表情を浮かべた新一がいて、たまらなくなって哀は両手を伸ばして新一にしがみついた。
 新一以外許す事もない場所に侵入され、哀は小さく声をあげる。ひとつになった瞬間、足りなかった空白に熱が埋められ、ようやく自分が独りではない事を実感する。引越し当初に浮かんでいた空虚感が、少しずつ姿を消していく。
 久しぶりに繋ぐ新一の体温に哀が思わず涙ぐむと、それを拭うように新一の唇が瞼に降りた。泣くな、と言いたげな新一も、どこか泣きそうに思えて、きっと新一は今でも毒だらけの世界で、様々なものに耐えながら過ごしてるのだと知る。それでももう哀には止める権利はない。新一の人生は、新一のものだった。

「工藤君」

 それでも、新一の人生の中の一部に自分がいたらいい。哀は新一の髪の毛に触れ、間近で見つめながら、新一の腰に両足を絡めた。もっと奥に来てほしいと身体で新一に示すと、新一は熱いため息を零しながら、小さく笑った。
 別の人間であるはずの二人の鼓動が一つに重なる瞬間を、全身で感じていく。