水槽の中では、美しい熱帯魚が数尾漂っている。ふわふわと不規則な軌道を作りながら、器用にぶつかる事もなく泳ぎ続けるその様は、人間よりもずっと生きやすいのだろうと思う。
「もう九月だというのに、今日も暑いですね」
グレーのシャツを着た医師は、白衣を着ていないので一見医者には見えない。水槽と観葉植物の置かれた診察室は、荒んだ人間の心を癒すように作られた空間のようで、なおさら精神が疲弊する。少なくとも新一にとっては。
「昨晩はゆっくり眠れましたか?」
眼鏡をかけた初老ほどの男の医師が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。新一にとって睡眠はさして重要にも思わない。どうせ現実とそうじゃない世界の区別が難しいのだ。過去の出来事が現実だったとしても、それを再び取り戻す事は難しい。流れる時間は絶対的に逆行しない。
「以前の診察時に、よく夢を見るとお話していましたが、最近はどうですか?」
水槽内に繋がっているポンプからは常に酸素が供給されている。人工的に整えられた、狭い楽園。医師からの問いに、新一は以前の診察というのが何だったのか思い出せない。ゆめ、とつぶやくと、その続きを促すように医者がじっと新一を見た。深い瞳の色は、新一の中に眠っている本質を覗いているようで、居心地悪くもあるし、全身で寄り掛かりたくもなった。
とある女子中学生を無理やり犯す夢を見たんです、とは言えるはずもなく、代わりに新一は、以前に自分が話した内容についてを医師に訊き直した。記憶があやふやである事は、新一自身もよく分かっている。
新一の問いに、医師は少々考え込み、ゆっくりと口を開き、君の感受性の豊かさにはただただ驚愕をしているんですよ、と前置きをしたうえで、話し始めた。
「巨大な悪の組織、不完全な不老不死の薬と、証拠を残さずに殺人に使われる違法薬物、君が最も信頼のおける仲間とそれらに立ち向かう物語です」
医師の言葉に驚愕しているのは、むしろ新一のほうだった。それらは関係者の中でもトップシークレットであり、軽々と他言していい内容ではない。肝を冷やしながら新一は診察にある丸い椅子に座り続けているが、ただの妄言だと思われているのか医師はさして内容を気にしている様子もなく、机に置かれたパソコンを叩き始めている。
「一時に比べたら落ち着いた日々を送っているようですし、どうですか、いったん退院を検討してみますか?」
癒しの空間を作り出す観葉植物が、二酸化炭素を酸素に変えていく。守られた空間の中での医師の言葉に、新一は生唾を飲み込んだ。ブラインド越しに差し込む日の光が、今は少し怖い。
退院したとして、その後いったいどうすればいいのか、新一には想像もつかない。それはいつの間にか声に出ていたのか、医師は柔らかく微笑んだ。
「工藤さんは物事を論理的に考える思考もお持ちで、想像力も豊かだ。お父様のように何かを書いてみるのはいかがでしょうか」
文字に書き起こした時に自分の心情を客観視できるのでおすすめですよ、という医師の言葉と共に、その日の診察は終わった。診察室を出る時にもう一度水槽に視線を向ける。時折思い出したように酸素を求める熱帯魚。彼らの寿命は、自分達よりもずっと短い。
診察室から個室へと戻る廊下の途中で、入院患者が集まる大広間の横を通る。今日はそこで映画鑑賞会が始まっているのか、椅子に座っている入院患者の数名が、テレビ画面に釘付けになっている。しかし、それに集中できない者が広間の中をうろうろと歩いていたり、しきりに廊下の様子を気にしている者もいる。フロアごとに施錠されている閉鎖病棟の中は、水槽の中のように、暮らす分には何不自由なく、傷つく事もなく、とても平和な世界だ。だけど、どんな場所にでもバグが存在している。自分が壊れゆく過程を、脳が覚えていなくても身体が覚えている。それを恐れて、作為的な安全圏に身を置く事を、肯定してしまう。膠着が続いてしまう。
大広間で映画を観ていた患者のうちの一人が、ふっと廊下に目を向け、新一と目が合う。見知った顔だった。以前のグループワークで隣の席に座っていた男だった。
「診察でしたか」
男は今日もシャツのボタンを首元まできっちりと締めている。洗剤の香りがきつく匂い、新一は一歩だけ男から後ずさり、うなずいた。
「気を付けた方がいいですよ、あの診察室にも盗聴器が仕掛けられていますから」
誰かに聞こえる事を恐れているのか、手を口元に当てながら小声で言った男は、満足したのか広間へと戻っていった。男の足取りが不安定なのは、おそらく服薬している薬の影響なのだろう。無理やり脳内ドーパミンの分泌量に制限をかけて、妄想や幻聴、幻覚を抑え込む。先ほどの医師も、新一の発言をそのような類のものだと捉えているのだろうか。
精神疾患は脳内物質の伝達異常によるものだ。新一は個室のドアを開ける。今はもうスタッフに連れ添われる事もなく、個室に鍵をかけられる事もない。医師の言う通り、状態は安定しているのかもしれない。新一の意識の中にはなくとも、確かに新一はここ数日の窓の外の景色を覚えている。熱い空気を覚えている。大広間で行われている出来事、医師との会話。パズルが組み合わさっていくように、記憶が少しずつ安定していく。精神を保つために必要なセルトニンも、啓発本にあるように朝の光を浴びる事で安定していっているのかもしれない。
個室の中は少々蒸していて、新一は部屋の入口に設置されている空調のリモコンのボタンを押す。途端に空調から冷たい風が生み出され、部屋の中を快適空間として作り出していく。
部屋の奥までゆっくりと歩き、窓を開ける。わずか数センチの視界から見える景色。少しだけ爽やかさを持った風が新一の前髪を揺らす。目の前に見えるヒマワリ畑は、以前よりもずっと寂しく見えた。季節の移り変わりに抗えない。永遠に同じ場所に佇んで、偽りの平穏さを求め続ける事は不可能だ。
風を受けながら、新一は目を閉じる。瞼の裏に映る景色は、懐かしさを滲ませる。
ふと、医師との会話を思い出した。
『君には強く信頼し合える相棒がいたんですね』
鼓膜の内側で医師の声が鮮明に響く。これは今日の診察の会話ではない。新一ははっと目を開けた。瞼に映った景色はただ一つ。これは妄想でも幻覚でもない、あってはならない毒薬によって新一は彼女に会えた。彼女と共に戦った。彼女に救われた。元の身体を取り戻した。
「……灰原」
ぽつりと名前を紡ぐ。窓の外の景色は変わらないのに、風の香りが変わったように思い、新一は瞬きも忘れて、ただ呆然と揺れるヒマワリの姿を見つめていた。
記憶は塗り替えられていない。でもそれを証明できるものもない。これまで忘れていた熱い感情が喉の奥で生まれる。これまで存在を忘れていた欲が、唇を震わせる。
会いたい。とても会いたい。ただ彼女に会うだけで、太陽を向かない向日葵が存在する場所でも生きていける。自分の信じたものを、永遠にできる。
だけど、それは無理だと新一はひとりごち、拳を握って壁を軽くたたいた。コンクリートの壁は冷たかった。瞬きをしない瞳に空気が触れ続けて、目が痛んだ。溢れる感情が自分をどのように裏切るのか、新一は知っている。様々なものを蓋して閉じ込めるように、ベッドに転がった。両手で自分を抱きしめる。軋みを立てる安いマットレスは、新一の身体を包み込まない。
水槽のような閉じた世界の外で呼吸できる事がどれだけ幸せで、どれだけ残酷で、心をすり減らしていくのか、新一は知っている。それでも新一は目を閉じて夢を見る。もう二度と彼女には会えない。再会してしまえば彼女を傷つけてしまう未来を、新一は知っている。
(2020.10.10)