部屋に吹き込んだ風はひどく熱を持っていて、新一は驚いて瞬きを繰り返した。この熱はいったいどこから来ているのだろうかと視線を彷徨わせ、数センチ開いた窓からだと気づく。新一はベッドから立ち上がり、スリッパの音をぺたぺたと立てて窓際に立った。窓には自殺防止のための格子が取り付けられている。まるで独房のようだ。
格子の隙間に映る緑と黄色。自然に反した方向に顔を向けているヒマワリは、風を受けて葉と一緒にゆらゆらと揺れている。科名、キク科、の、属名、ヒマワリ属、の、植物。自然に咲く生き物。太陽を向かない向日葵なんて、名前負けにもほどがある。
だけど、この熱風のような風を受ければ、仕方ないのかもしれない。そういえば今は何月何だったかと新一は考え、部屋を見渡す。この部屋には、カレンダーやスマートフォンが置かれていない。チェストに乗ったデジタル時計だけが、今日の日付を示している。世間では夏休み真っ只中である八月、新一には相変わらず時間の感覚が抜け落ちている。
「工藤さん」
チェーンの音と共に鍵が開き、看護師が新一を呼んだ。
「気分はどう? ご飯は食べられそう?」
時計が示す時間と、食事の時間が噛み合わない。新一が黙ったままじっと看護師の顔を見ていると、看護師は同情するような笑顔を見せた。
「赤井さん、また来るって言っていましたよ」
だからあまり気を落とさないでね、と言う看護師に、今度こそ新一は首を傾げた。赤井さん? そう訊ね返した新一に、看護師は黙ったまま笑った。
なぜ看護師の口から赤井秀一の名前が飛び出したのか、新一には分からなかった。いつかのグループワークで隣にいた男の声だけが、鼓膜の奥で響く。途端に目の前にいる看護師を、例えば警察庁から潜入している捜査官ではないかとか、犯罪組織に身を置く酒の名前をコードネームとした人間ではないのかとか、色々と疑念が胸の中に生まれ、新一は歯を噛みしめる。じゃらじゃらと看護師の手にあるチェーンに繋がった数々の鍵を見て、そうじゃない、と新一は自分自身に言い聞かせる。いつの間にか握り締めていた手の中に汗が滲んでいる。手のひらには爪が食い込んでいたのか、今になって痛みを覚えた。
抜け落ちているのは時間の感覚だけではない。もっと根本の何かが狂っている事で、今が昼間なのか夕方なのかすら分からない。病院に定められた起床時刻に起きていたとして、今日どのように過ごしたのか、新一には思い出せない。
窓からは相変わらずの熱風が吹き込んでくる。部屋を出ようとする看護師を、新一は慌てて呼び止めた。
この部屋暑いんだけどどうにかならないですか。まるで、地球の回転を止めたいんですけれどどうにかならないですか、に置き換えられるくらい、陳腐で無理難題な要求に思えた。しかし、新一の予想とは裏腹に、看護師は肩をすくめ、ドアの近くにある空調のリモコンを指先で押した。途端に壁に取り付けられたエアコンから冷風が生み出される。納得した新一の顔を一瞥した看護師は、今度こそ部屋から出ていった。表側から鍵をかけられる。そしてまた、新一の自由が失われる。それに対しても、もう、どうでもいい。
どこに私の居場所なんてあるの、という声に、新一は周囲を見渡す。そこはとても懐かしくもありながらもまるでつい最近まで入り浸っていたと錯覚しそうな、隣人に住む博士の家だった。大きな窓から差し込む光によってリビング全体がとても明るい、新一の知っている場所に比べて対照的な空間だ。
子供の姿をした彼女は、新一から視線を逸らして、肩にかかった毛先を避けるように癖のある茶髪を片手で耳にかけた。子供の姿とは裏腹に、やたらと色気のある仕草だった。そして子供である彼女と同じ目線で話している自分自身も子供の姿なのだと新一は認識を照らす。
彼女の言葉は、新一の問いへの回答だった。――おまえは元に戻らないのか?
「元に戻ったところで、どこに私の居場所なんてあるの」
思わず視線を落としてしまったのは、答えを導き出せなかったからだ。解けない謎はないと豪語した過去が自分の首を絞めていく。少なくとも偽りの姿をしていた時間、多くのものを共有したともいえる彼女の自問自答を、新一は共有できなかった。
小さな疑念はいつしか大きく膨れ上がり、抱えきれず、飲み込む事すらできず、やがては自分自身を飲み込んでいく。それが原因で数々の仕事を抱えきれず、幼少時代から好きだった幼馴染との別れを選び、日々の色が失われた。
偽りの姿を終えた日に飲み込んだカプセルは、自分にとっていったい何だったのだろうか。あの頃抱いていたはずの夢や希望があっけなく失われた今、新一は何にしがみつけばいいのか分からない。
真実が一つしか存在しないという事の恐怖を知った。
頭の奥側から響くサイレンから逃れるように、ベッドのシーツの上に組み敷いた彼女の細い首元に触れる。震える手のひらで鎖骨を撫でる。そこにいた彼女は子供ではなかった。でも、大人とも言えない、第二成長期の過程の中。
これは夢だ、と新一は思う。セーラー服を着た彼女を遠くから見た事はあっても、触れた事はない。それどころか、もう何年も会っていない。しかしリアルな感触を残したまま、新一は彼女に触れていく。彼女の抗議を封じ込めるように彼女の唇を塞いで、しがみついて、救いを求める。
これは夢だ。でも新一は知っている。これは、いつか自分を飲み込んでしまう未来の姿だ。