この部屋は二十四時間常に盗聴されているんですよ、僕達はいつも監視されているんです。と、首元までのボタンをきっちりと留めたシャツを清潔に着た男が、新一の隣でつぶやいた。椅子取りゲームでも行われそうな円を作るように並べられた椅子のひとつに座った新一のちょうど半周向こうに座った中年の女が、うつむいたまま立ち上がり、おずおずと口を開く。私は髪の毛を抜きむしる癖があります、でも昨日と今日は我慢できました、薬はポーチで整理してきちんと飲むようにしています、ポーチは昔学校で作ったものです、私は裁縫の学校に通っていました、また通えるようにここで頑張っています。
頑張っています。と新一は彼女の言葉を口の中で反芻する。頑張るという単語は危険だ。根性論だけで乗り切れる世界であれば、この場は存在するはずがない。
とっさに新一が抱いた危惧を持つ者はこの部屋にいないのか、リーダーに当たる心理療法士の女が先導するように拍手をし、室内でぱらぱらと手の摩擦音が広がり、不完全な拍手がフローリングの床へと落ちていく。誰かの声がないと動く事もできない、ここはまるで窮屈な学校のようだ。本当の言葉を閉じ込められていくような感覚。ざらりとした空気が耳に触れる。何者かに徹底的に管理されている室内は安全な水槽の中のように、ここでは衝動的に睡眠薬を大量に服用する事もないし、狂ったように髪の毛をむしる事もない。人間の本能を無視した不自然な安全圏。
円を描くように並べられた椅子の中央に立った心理療法士の女が、ひとつの単語を呼ぶ。じっと新一のほうを見ている。それが何の単語なのか新一は考える。クドウサン。クドウサン。次はあなたの番ですよ。
それが自分の名前の一部である事を唐突に思い出した新一は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。その際、椅子の足が床を引きずり、摩擦音を立てた。
工藤新一です。新一は言い、次に何を言うべきか考える。心理療法士が、毎日お薬を飲めていますか、と訊ねてくるので、新一はオクスリ、と口の中でつぶやく。
口の中で溶けやすくコーティングされた口腔内崩壊錠は、決しておいしいものではなかった。苦みと共に広がった寒気と、血の匂い。救えなかった命。無駄にできるものなど一つもなかったはずだった。
「工藤さん!?」
ざわざわと室内に動揺が広がる。頭の中をぐらりと回した新一は、椅子に手をつくようにしてその場にしゃがみ込んだ。自分の名前をやたら呼ぶ心理療法士の声の狭間に、隣の男の声が鮮明に聞こえる。この部屋は二十四時間常に盗聴されているんです、僕たちは監視されているんです、このままだと危険な目に遭ってしまいますよ、戦争が始まってしまうかもしれない、早く逃げなければなりません。
そんな事分かっている、と新一は思う。だけど、逃げ場所があればここに来ることはきっとなかった。
自分の身の置く世界が水槽の中だったらよかった。綺麗な場所でしか生きられないと最初から決まっている生物になって、透明な水に守られながら、適度に酸素を供給されながら、そこが狭い空間である事にも気づかないまま一生を遂げる事が、不幸だとは思わない。
新一はベッドに座ったまま、チェストに目を向ける。そこにはいつの日かまでは父親である優作の差し入れである小説の文庫本や単行本が数冊置かれていたはずだった。あれらはどこにやったんだったっけ、と新一は考える。独房のような狭い個室にチェスト以外に収納スペースはないので、探しようもない。ベッドに座って思考を巡らせる。格子がかかった窓は全部開くことなく、たった数センチの隙間から吹き込む風は生ぬるい。記憶が飛び飛びで、その風を浴びたとしてもはやり季節感を掴めないままだ。
本の在りかについて考えるのを諦めた頃、ドアのノックが鳴った。
「工藤さん」
ここのスタッフは一つのチェーンに多くのカギをぶら下げている。病棟の各フロアや、フロアによっては個室にも鍵が設けられているからだ。じゃらじゃらと鍵を開けたのは看護師で、様子を伺うように狭い病室内に顔を出した。
「工藤さん、気分はどう?」
午前中に行われたグループワークで倒れた新一は、療養のために再び個室に隔離させられていた。なぜあんな状態になったのか分からない。
落ち着いています。と答えた新一に、看護師はほっとしたように微笑んだ。ここで働く看護師は、ドラマやパンフレットなどでよく見るような、ありふれた白衣姿ではない。スタッフそれぞれ職種が分からず、どう応対したらいいのか戸惑ったこともあったが、会話の端々でなんとなくその職能を見る事ができた。
看護師に促されるまま談話室に繋がる廊下を歩く。大広間ではカラオケ大会が行われているのか、リズムの合わない手拍子と共に音の外れた歌声が軽快に響いていた。
このフロアには、入院患者が過ごす個室以外に完全な個室は存在しない。簡易仕切りで作られた面会室に案内されると、そこにはずいぶんと久しぶりの姿があった。
「よぉ、ボウヤ」
いくら季節感を失われていても、外の景色とその黒いニット帽がそぐわない事くらい新一にも分かる。赤井さん、とだけつぶやいた新一は、テーブルを挟んで赤井の前に座った。閉鎖病棟への面会は可能ではないはずだった。彼がどのような手を使ってこの場に来たのか、新一は考える。
「ボウヤの好きな本でも差し入れを、と思ったんだが、どうやらNGだったみたいだ」
肩をすくめる赤井の言葉を聴いたと同時に、新一の意思とは無関係に、粘度の高い記憶がどろりと喉元に流れ込んできた。
父親から差し入れられた文庫本は、形を崩された結果、病院職員に取り上げられたのだった。無限にある時間を得た新一は昔を取り戻すように、幼少期から好きだった推理小説を読もうと本を開いた。しかし、目に入って来る文字は記号のように流れていった。何一つ意味を掴めない。登場人物の名前も覚えられない。そのような理解力で集中できるわけがなく、自分ではない何かに憑りつかれたような感覚に陥った新一は、自分自身に絶望を覚え、混乱を起こした。咆哮を上げながら、本のページを破り裂いた。文庫本を背表紙ごと引きちぎった。その様子をドアの一部分にある格子越しで発見した看護師が慌てて鍵を開け、新一を抱えるようにベッドに押し付けた。医師の指示で鎮静剤を打たれ、気付いたら拘束されていた。
ここでの暮らしは、きっとその繰り返しだ。あれは、窓を開けるにはまだ肌寒い季節だった。
胸の奥で鉛のような何かが蓄積される。薬にも似た毒のようなもの。新一はひどく咳込んだ。管理が徹底されている場所にもバグが発生する。世の中に完璧さは存在しない。優秀だと言われている日本の医療ですら、完全なものではない。
酸素の足りない水槽の中。優雅に泳ぐ熱帯魚のように、華やかに愛されたいわけではない。何かに飢えているつもりもない。
「工藤さん、大丈夫ですか!?」
気付いた時には、仕切りの中に看護師が姿を見せ、赤井が新一の背中をさすっていた。呼吸をするのも苦しい。看護師がハンカチを新一の口元に押し付けた。途端にこの世の全ての人間が自分を殺そうとしているんじゃないかという疑念が沸き上がり、新一はハンカチを噛みしめる。両手で振り上げてどうにか自分を守ろうとするのを、赤井によって封じられ、更に興奮を覚えた。過敏に働く交感神経が、脳を麻痺させていく。クドウサン、と暗号のような言葉の隙間に、聞きなれた声が響く。新一しっかりしろ。赤井の声だ。
赤井に会ったら聞きたいことがあったのに、と新一はハンカチを噛みしめたまま、一瞬の隙をついて解放された手を使って赤井の胸倉を、爪を立てるように掴んだ。何を聞きたかったんだったっけ、と更に戸惑う。言葉を失った赤ん坊のように、せき止められていた感情が涙となって頬に伝った。映像が映る。ランドセルの革の匂い。夕方のアスファルトに伸びた影。隣にいた彼女の名前を、口にする事もできない。
もう何も、わからない。