6-8

 耳元まで布団を被っていた新一の瞳が、暗闇の中でゆらゆらと揺れる。

「……た、狸寝入りしていたの?」

 新一から離れようにも、掴まれた手首が熱くて、哀は戸惑う。

「そんな、人聞きの悪い」
「だって……!」

 苦笑を零した新一に対して動揺を隠せない哀の頭を、新一は優しく撫でる。左手の腕に哀の頭を乗せるようにして抱き寄せた新一が、右手で哀の背中を撫でる。

「灰原」

 暗がりの部屋に響く古いエアコンの音の中に、新一の細い声が消えていく。

「おまえにはまだ広い未来が残されていて、あえて俺に固執する必要はないよ」
「だから、あなたはそんな事を考えなくていい」

 隔てるレンズなどここにはない。新一をまっすぐ見つめて、哀は言う。

「あなたのくだらない罪悪感で、私の気持ちまで決めつけないで」

 最初からこうやって仕掛けていたのは哀のほうだった。少しずつ暗闇に慣れた目が、新一の表情を捕らえる。視力の下がった新一の目が、哀を捕らえる。両手で新一の頬に触れ、哀は新一にキスをした。前髪のかかった額に、冷えた鼻先に、そして少し乾いた唇に。

「灰原……」

 されるままでは気が済まないのか、再び哀の手首を掴み、哀に覆いかぶさるように哀を抱きしめた。

「どうしよう、おまえの気持ちが嬉しい」

 そして今度は新一が哀にキスを落とす。先ほどの哀のキスを辿るように、額に、鼻先に、唇に。
 それは自然の流れだった。新一の手が哀の部屋着であるパーカーの中に入り込む。哀が絡まるようにして新一のすねに足先で触れると、くすぐってぇよ、と新一は笑う。
 キスを繰り返す。哀も新一のスウェットを掴む。身にまとっていたもの全てをはぎ取り合って、素肌で抱きしめ合う感触を味わうのは、とても久しぶりだった。
 あったかい、と思わず哀がつぶやくと、新一は小さく笑う。

「これからもっとあったかくなるよ」

 新一の唇が鎖骨に寄せられ、哀はただ新一の髪の毛に触れる。この柔らかい髪の毛に触れる事が、今後もあるだろうか。お風呂上りの無防備な新一の髪の毛を乾かせる日が続くというのだろうか。
 新一の言った通り、気づいた時には互いの肌に汗がにじみ、二人を覆っていた布団がベッドの足元に落ちている事にも気づかないまま、新一の指が、唇が、哀を辿る。哀は必死に両手で新一の頭に触れ、耳に触れ、肩に触れ、自分の持たない胸板に触れる。右手で触れたその場所は、小さく脈打っている。いつもよりも早い鼓動が指先に伝わり、哀は唇を噛みしめる。

「灰原」

 哀に気付いたのか、新一が顔を寄せる。至近距離で見つめる新一の瞳の中にも、波が存在しているようだった。そしてそこで、海が生み出され、風が吹き抜け、空が世界を覆っているのだろう。

「――哀」

 新一の薄い唇が、哀の名前を紡ぐ。かすれた声と共に、哀の中に新一がゆっくりと入り込み、哀が小さく悲鳴をあげたのは、その熱のせいだけではない。
 この行為はいったいどんな意味を持つというのだろうか。それでも、心を近づけるように、指を絡め合わずにはいられない。熱い吐息ごと、噛みしめるようにキスをして、呼吸を分け合う。
 何度も名前を呼ばれるたびに、自分の求めていた熱が心を支配していく。ここは孤島ではない。広く大きな世界の中で、今こうして新一と繋がっているという事実に、哀は子供のように泣いた。
 地上に存在する水平線、海路は果てしなく続いていく。



 治験を受けようと思うんだ、と新一が言った日の事を哀は思い出す。二人がそれぞれの病院を退院してから二週間が経った頃の事だ。おまえに救ってもらう命をないがしろにできない、と新一は言った。全部哀の為だった。哀の独りよがりにも思えた行為に、新一は未来を裏切る事ができない。

「工藤君」

 もう一度シャワーを浴び終わった後、整えたベッドの中で哀は新一に訊ねる。

「物件探しているって言ってたわよね。どんなところを探していたの?」

 室温がひんやりと冷たく感じるのは、エアコンを消したせいだけではないだろう。新一の体温に寄り添うように、ようやく哀はその話題を持ち出した。
 シャワーを浴びたせいか、新一の体温が高いままで心地がよい。午前零時をまわった深夜、再び世界が遮断された錯覚に陥りそうだ。

「おまえの大学の近く。でもここよりはちょっと狭いかな……」

 哀の前髪に触れながら、新一はつぶやく。

「そこは、おまえが住む為の部屋だ」
「じゃあ、工藤君は……?」
「哀」

 先ほどと同じ呼び方で、新一は哀の名前を呼んで、哀の顔を覗き込んだ。

「俺は、やっぱり今までと同じようにおまえと一緒にはいられないよ」

 新一の声が震えている事に気付き、哀は新一の頭ごと抱きしめる。新一の放つ言葉には、いつも嘘と真実が混じり合っている。そこに線引きはない。相反する二つの物事は、時によって逆転する。哀を好きだという気持ちも、突き放そうとする感情も、新一の中では嘘であり、真実なのだろう。

「俺は、三月の治験が終わったら、一度東京に帰ろうと思う」
「東京……、米花町に?」
「ああ。母さん達ももう米花町に戻っているし、安心させないといけないよな……」

 寝返りを打つように、新一は哀から少しだけ離れ、それでも哀から視線を離さない。

「だけど、俺はきっとすぐにおまえに会いたくなる……」

 哀の両手を握りしめた新一がまつ毛を伏せ、白い頬に影ができた。
 十二月の深夜は、あっという間に室内を冷やしてしまう。これからの日々も、こうして冷えてやまない夜があるだろう。だけど、膠着した今の状態から前に進むための新一の言葉を、哀は否定できなかった。このままではいられないのだと、哀自身もよく分かっていた。

「工藤君」

 握り締められた新一の手の甲に唇を寄せて、哀はつぶやく。

「私達、やり直すことはできなくても、もう一度始める事はできるわ」

 一緒にいるための理由をずっと探していた。過去を否定しない為。それも真実だ。だけど、理由なんて本当はいらないのだ。この心がある限り。

「だから、今度はあなたが私を追いかけてきて」

 あの夏の日を思い出す。どんな手段を使ってでも新一を探し出さなければならないと行動に出た衝動の起点は、抱え込んでいた恋心だった。あの日の新一の強引さの中に優しさが隠れていたように、物事は常に二面性を持つのだろう。光と闇を持つ空のように、穏やかさと荒々しさを持つ海のように。
 哀の挑発的な口調に、新一は一瞬だけ泣きそうな顔を見せた後、唇を震わせ、ありがとう、と低くつぶやいた。
 カーテン越しに差し込まれる光は、視界の頼りになる唯一のものだ。時間とともに、光は色を変えていく。深くなる夜の気配に紛れ込むように寝息を立て始めた新一の隣で、哀もゆっくりと閉じた。