エピローグ


 洗顔を終えた新一は、濡れた顔のまま目の前にある鏡を見つめた。眼鏡をかけていないせいでぼやけて見える自分の顔が、年齢に伴って老けていないのはただの体質だ、といつか哀に言われた事を思い出す。自分の母親の衰えない美貌を思えば、それは案外真実なのかもしれないと新一は思い、新鮮なタオルで顔を拭う。柔軟剤の香りが新鮮だ。そういえば、哀が最近買い替えたと話していたことを思い出しながら、棚に置いた眼鏡をかけた。すぐ後ろではドラム型の洗濯機が稼働している。
 扉型となっている鏡の中には、哀の使用する基礎化粧品も並んでおり、ここはもう自分だけの空間じゃない事を実感する、彼女と再び一緒に暮らし始めてからそれなりの年月が経つのに、新一は今でも不思議な気分を味わう。人が独りではないという事について、考える。
 築三年ほどの六階建てのマンションの、五階にある部屋に新一と哀が住み始めてから、三回目の春。窓からは朝日が柔らかくリビングを照らしているのを横目に、新一はキッチンにあるバリスタでコーヒーを淹れる。朝の日課だ。
 昔と同じように、部屋の中は静かだ。リビングの壁には五十五型のテレビが備え付けられているが、ほとんど付ける事もなく、新一は閉め切った窓の外の気配を全身に感じる。都会の雰囲気を、新一は好きだ。人々が活動している気配は、自分がきちんと世界の中で過ごしているのだと実感できる。
 カフェインの香りが漂い出した頃、新一は廊下を出てから寝室のドアをそっと開けた。

「哀」

 新一がドアノブを持ったまま声をかけると、窓際にあるベッドの布団がもぞりと動いた。昔から変わらない寝起きの悪さすら、愛おしさとして胸の中にじんわりと広がり、新一はスリッパの音を大きく立てないように、ベッドへと歩く。

「哀、コーヒーを淹れたけど。今日も仕事って言ってなかったっけ?」

 新一がベッドの端に軽く腰掛けると、布団を被っていた哀がゆっくりと顔を出した。乱れた前髪に、新一は触れる。

「おはよう、ゆっくり眠れたか?」
「……その胸に手を当てて自分でよく考えてみたら」

 寝起きのせいか、かすれた声でつぶやいた哀が布団を被ったまま新一を睨んだ。昨日の夜は久しぶりにお互い早く帰宅する事ができて、それで盛り上がってしまった事を哀は静かに責めているのだ。少し無茶をさせてしまったかな、と新一が笑うと、哀の白い頬が赤らむ。胸に広がった感情を発散する方法を、新一は今も分からないままだ。
 それは、自分を見失った瞬間の感覚と似ているようで、少し怖い。
 空気を入れ替える為に窓を開けると、外の気配が濃くなっていく。ここは二人きりの世界じゃない。最近研究続きだった哀は、今日大学に出向いた後でようやく明日から世間から遅れて連休をとれるという。新一といえば、出版社を退社した服部と共に探偵事務所を立ち上げ、生計を立てるようになっていた。仕事中毒に陥っていた過去の二の舞にならないように、仕事量を調節しながら活動できているのは、服部のおかげだ。そもそも、新一のもつ疾患は完治しておらず、現在も病院に通う生活だ。ただし新薬での治療の成果もあり、以前ほど倦怠感に襲われることもなくなり、生活を脅かされることもなくなった。
 結局、自分はこういう方法でしか生きられない。どんな形で過ごしていても、命を持つ限りそれらから逃げられない事を知った。

「工藤君」

 窓から漂う春の微睡みを含んだ風の中に、哀の声が心地よく溶ける。

「お誕生日おめでとう」

 ベッドの上に座り込んだ哀が、まっすぐに新一を見つめた。昨夜抱き合いながら深夜零時を迎えた瞬間にも聞いた言葉だが、改めて言われるのも悪くない。外の世界ではどんな毒が放たれていようと、彼女の存在ひとつで新一は自分を取り戻す。
 過去の過ちは消えるものではない。それを知ったうえで、それでももう彼女と離れる事はできない。許されないという事だけが救いだ。
 五月四日、午前八時。世間の連休とは関係なく、今日は互いに仕事だが、明日は久しぶりに二人で過ごす休日だ。寝室から出た廊下の向こうにある洗面所では、洗濯機が仕上がりの合図の音を鳴らす。感情のやり場を探すように、サンキュ、とつぶやいた新一が哀の瞼にキスを落とすと、哀は昔と変わらない微笑みを持って新一の髪の毛に触れた。

「ゆっくり生きていきましょう。限りある未来を」