6-3

 新一に手を引かれるようにして、バスに乗ってアパートへと戻った。部屋は綺麗に片付けられていて、まるでタイムマシンで二週間前に戻ったような錯覚に陥りそうになったほどだ。だけど、バスの窓から見た景色、中央分離帯に植えられた街路樹が色を変えていて、確実に時間の経過を示していた。
 アパートの部屋に入り、羽織っていた薄手のコートを脱ぐなり、二人してベッドに倒れこんだ。

「ごめん……」

 遠くで雷の音が響いている。窓の外は、午後一時にしてはやたらと暗い空模様だった。
 柔軟剤の香りのするベッドシーツの上で寝転がってしばらく経った頃、哀を抱きしめたまま新一がつぶやいた。

「おまえを突き放すつもりで面会謝絶をしたわけじゃねーんだ……」

 新一の言葉に、哀は顔を上げる。寝転がった事で新一のかけている眼鏡が顔からずれていたので、哀は両手でその眼鏡をゆっくりと外す。新一の持つまっさらな瞳に出会い、熱い感情のかけらが胸の真ん中に落ちた。
 大丈夫、と哀は言う。

「私も、あなたを面会謝絶の名簿に入れたから」

 哀の言葉に、新一は顔をくしゃりとさせて笑った。
 窓の外で鳴り響く雷と共に、雨音がやって来る。それは次第に大きくなり、窓の外の景色を変えていく。季節外れの夕立みたいだ。

「俺達、何をやってんだろな……」

 震えるようにつぶやかれた言葉を聞き、哀は両手で新一の頬を挟むようにして触れた。

「工藤君、私の学費を負担していたのは、罪悪感によるもの?」

 哀の髪の毛に触れる新一の瞳がゆっくりと揺れ始める。風を受けて不安定に揺れる波のように、新一の瞳の中には様々な感情が渦巻いている。彼がその透明な瞳で受け止めてきたいくつもの出来事。綺麗なものばかりであったはずがない。
 沈黙は肯定のしるしだ。いきすぎた罪悪感が生み出すものが、必ずしも何かの報いになるとは限らないという事を、哀はもう知っている。
 自分達はもう過去には戻れない。これまでと同じように過ごすことはできないのかもしれない。
 しばらくの間に流れた沈黙を先に破ったのは、新一だった。

「おまえも、俺に隠し事をしていただろ?」

 だけど、新しく吹き抜ける風を受けることで世界が広がる。膠着ほど恐ろしいものはない。ずっと昔に哀が身を置いていた組織の空気は、まさにそれだった。

「おまえが俺のために薬を研究してたって。それを治験にまで漕ぎつけたって、横田先生から聞いた」

 新一の言葉に、今度は哀が気まずさを覚える番だった。
 今になって、二週間前のこの部屋での出来事を哀は思い出す。新一が意識を失う前に零した言葉を、哀はを聞き逃していない。好きだと告げた新一の表情だって、覚えている。それが一時的な感情だったとしても、幸せだと思ったのだ。
 さらりとした手触りのシーツを通して、互いの体温を洋服越しに分け合っていく。ベッドの上でのまどろみ、外を覆う激しい雨はやまない。



 医師の指示通り、二日後から哀は大学に復帰した。
 二週間も大学を休んでしまった。大学三年生にもなれば、実験を行う実習科目も並び、単位を落とせば即留年だ。これからしばらくは講義の遅刻すら許されないという事実に、哀は憂鬱さを覚えながら、講義が終わった後、資料を鞄に詰め込んで、廊下に出た。

「灰原さん、体調はもう大丈夫なの?」

 講義室を出たすぐの場所で、同じ研究室に所属している大学院生の黒髪の男子に声をかけられ、哀は振り返る。昼休みに入ったこの時間の廊下では、食堂やカフェに向かおうとする学生達が空腹を抱えて忙しなく歩いている。

「私が休んでいた理由を、よく知っていますね」
「みんな知っているよ。灰原さん、目立っているし」

 あっけらかんと言う彼は何かと哀を気にかけてくれる。クラスに一人はいるタイプの男子かもしれない。孤立したクラスメイトを放っておけない学級委員長タイプだ。

「ありがとうございます。でも、もう平気です」

 同じ研究室には他にも学生が多くいるというのに、彼が自分に気にかける理由を哀はなんとなく勘づいていて、親切に接する彼への突き放し方を冷静に考える。

「あまりそう見えないけれど……。あのさ、落ち着いたらご飯でも食べに行こうよ。二人が嫌なら、他の学生さんも誘ってさ」

 何度か聞いた言葉に、哀が彼の顔をじっと見つめると、彼は日に焼けた頬を少しだけ赤く染め、視線を逸らした。中学生になった頃からこういう事は時々あったけれど、ここまで分かりやすいのは久しぶりで、哀は本来の自分の年齢を思い出す。

「申し訳ないですけれど、家で親戚が待っているから」

 常套句にもなってきた断り方で哀がかわすと、男子はリュックを抱えなおして、笑う。

「灰原さんさ、いつも親戚って言っているけれど、本当は恋人でしょ」

 彼は笑いながら、研究棟のある方向へと背を向けて歩いて行った。
 恋人なわけない。そう言い返せなかった。哀は今朝の新一を思い出す。以前と同じように、今朝も新一は哀が起きる頃にコーヒーを淹れてくれた。退院した日の夜は久しぶりに新一の作ったものを食べた。部屋が綺麗に片付けられていたのも、ベッドシーツがいつも心地よいのも、すべて新一が生活を整えてくれているからだ。その上で、新一は哀の暮らしを金銭面という形でも助けているという。
 哀は廊下の窓の外を眺める。退院の日に見た時と同じ、樹木の葉が赤や黄色に染まっている。もう新一と過ごす時間は戻らないと思っていた。きっと同じ形には戻れない。
 窓から冬の匂いを含んだ風が流れ込んでくる。きっと今まで気づかなかっただけで、いつだって日々の中には新しい風が舞い込んできたのだろう。二人だけの世界だなんて、きっと最初から成り立っているはずがなかったのに。
 恋人ではない。でも同じ部屋で暮らして、身体を重ねた夜もあった。新一を好きだと、改めて哀は思う。秘めた思いは、いつまでも抱えきれない。