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 やけに冷えると思ったら、もう十月も終わろうとしていた。これからはあっという間に冬がやって来る。新一は大学病院内の屋上のベンチに座り、まだ暗い空を見上げた。市街地にあるこの病院の周辺は外灯が多く、空に星は浮かばない。

「あれ……?」

 開いたドアを共に聞こえてきた声は、新一がよく知る人物のものだった。

「え、嘘だろ? もしや、工藤君……?」
「こんばんは、横田先生」

 まさかこんな時間に病院スタッフが出入りするとは思わず、動揺を隠すように新一は平然と笑顔を作るが、そもそも暗がりの中でその演技は必要なかったかもしれない。

「いやいや。こんばんは、じゃないよ……。起床時間までまだ時間があるだろう? 君、また頭でもおかしくなった?」
「そうですね。元々おかしいのかも」

 新一にとっての冗談が、横田にとってはそうではなかったようだ。横田は深くため息をつき、新一の隣に座った。暗がりの中に、彼の着る白衣がよく映える。ポケットから煙草の箱を取り出し、吸っていいか、と尋ねられ、新一はうなずく。ライターの火が小さな灯りを作り、横田の表情を映した。少々疲れているようだった。

「それにしても、入院病棟にはナースステーションという難関関門があるだろう。どうやってそこをすり抜けて来たんだ?」

 煙を吐きながらつぶやく横田に、新一は笑みを零す。

「俺はこう見えて元探偵なので、気配を消すくらいどうって事ないですよ」

 白い煙が闇へと舞っていく。空は少しずつ色を変えていく。新一は羽織ったニットカーディガンの襟元を整え、ベンチの上で膝を抱えた。

「それに、看護師達も、忙しそうでした……。みんな働きすぎだ」
「俺達に夜も昼もないからな」
「横田先生は、今日は当直ですか?」
「馬鹿言え、勤務中にこんなサボり方できるわけないだろう」
「じゃあ、先生も過労働者の一人だ」

 膝を抱えたまま、顔を膝に押し付けて横田を見ると、隣で横田は困ったように笑った。

「工藤君。君はきっと優しすぎるんだ。他人に対して無感情ではいられない」

 煙の香りを懐かしく思ったのは、偽りの姿だった頃の居候先でよく見た煙草の銘柄と同じだからかもしれない。

「誰だって道を踏み外すことはある。もちろん僕にもね」
「……先生にも?」

 新一が訊き返すと、横田は煙草を口にくわえ、ゆっくりと息を吸った。時間をかけて立ちのぼる煙は、儚さを残して消えていく。

「君は、正しさにこだわるあまりに踏み外してしまっただけだ」

 少しずつ東の空に色が移っていく瞬間を綺麗だと思える事は、自分が健全に正しく生きている事の証明に思えて、少しだけ後ろめたさを取り除かれる気がした。少なくとも、探偵業で忙しかった頃は、空の色の変化を気にする余裕もなかった。
 もうこれ以上自分を壊したくない。何が正しいかなんて、濁った海の中に溺れ続ける日々の中で、答えがない事だけを知ってしまった。

「ところで工藤君。灰原君には会えたかい?」

 短くなった煙草をポケット灰皿に落とす横田の発言に、新一は思わず思考を止めた。

「……え? はいばら?」
「君のシンセキ、なんだろう?」

 横田の含んだ言い方に、新一は思わず顔を背けた。何かを知っているような唇に、動揺を隠せない。つくづく、自分はとっさに嘘をつくのが苦手だと思う。
 この大学病院の付属元となる大学に哀が通っているので、横田と接点があってもおかしくない。そもそも新一が横田が専門とする血液免疫内科に移ったのも、絶妙なタイミングだった。
 ただの大学生にしては多忙すぎる。それどころか、高校生の頃から大学に出入りしていた事も、きっと普通ではない。

「先生。もしかしたら灰原は……」

 隣に座る横田に再び視線を向けて新一が言いかけた時、横田の白衣の胸ポケットで電子音が鳴った。横田が常に携帯しているPHSが軽やかに鳴り続ける。当直でもないその電話に横田も不思議に思ったのか、眉を潜めながらも新一に背を向けて通話ボタンを押した。

「はい横田………、え?」

 一度背を向けたはずの横田がもう一度新一を見た。先ほどのようなふざけたような態度は一切なく、表情は一変して焦りを醸し出している。通話ボタンを押した横田は、ひと呼吸をして、新一を見た。

「先生、何かあったんですか?」

 新一が訊ねると、横田は唇を震わせて迷いを見せた後、意を決したように口を開いた。

「灰原君が倒れて、市民病院に運ばれたらしい」

 東の空が白みを帯びていく。この瞬間に心を奪われるようになったのは、哀と暮らしてからだった。午前五時半の空の下、新一はベンチから立ち上がった。