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 研究室内で働く空調の音が轟々と鳴っている。

「灰原君」

 ドアが開くのと共に、入ってきた白衣姿の横田に一瞥した哀は、再び資料に視線を戻してため息をつく。

「こんなところで油を売っている暇はあるんですか、横田先生」
「相変わらず君は冷たいなぁ。工藤君の状態を伝えに来たのに」

 横田のセリフに、哀は資料を机に置いた。新一が発症したのは急性的な肝炎だった。元々肝臓を患っていたうえ、疲労も重なった事が原因のようだ。昏睡が続くほどひどい状態でもないようだが、朝になっても新一は目を覚ますことなく、哀は朝から研究室に籠っていた。

「工藤君は消化器内科に入院しているはずです。先生の領域外でしょう」
「そんな単純なものでもないよ。彼が服薬が制限されている今、関与しないわけがない」
「なら、尚更ここにいる場合ではないんじゃ……」

 つぶやく哀の目の前に、横田が立つ。普段はつかみどころもなく薄ら笑いを浮かべている横田が、思いのほか真剣な表情で哀を見た。

「工藤君が目を覚ました。今も点滴で補助療法を続けているそうだ」
「……そうですか」

 哀はうなずき、再び資料に目を向けた。
 開発を進めている薬は、非臨床試験を終えようとしている。次に行うのは、人間に対しての試験だ。正式に薬が医薬品として認可が下りるまで、最低でもあと四、五年はかかる。時間が足りない。資料を握った手が汗ばむ。

「シェリー」

 声が響き、哀はびくりと肩を震わせた。その名前は今の哀にとっても畏怖の対象だ。それも固い声で呼ばれた日には、尚更だった。

「そんなに根詰めたところで現状は変わらない。今君がすべきことは、それじゃないだろう?」

 横田も例の組織に関与していたうちの一人だ。ただし犯罪的な行為に直接手を下していなかった彼は、半ば人質に近い立場にあった事から、今ではその過去を捨てて今に至る。高校生の哀が大学の研究室に訪れ、論文を提示した頃には、哀の正体に気付いていたという。だから、新一の状態についても一番真実に近い場所にいるのは、横田かもしれない。
 横田の言葉に、哀はゆっくりと立ち上がる。窓もない研究室の中にいると、今が何時かも分からない。顔を上げると、押し殺した感情が溢れそうで、哀は歯を食いしばるようにして横田を見上げた。相変わらず白髪交じりの、冴えない顔をした横田はいつものように飄々とした表情に戻る。

「今日の面会のタイムリミットまであと三十分だ、灰原君」

 その言葉を合図に、哀は横田に会釈をし、研究室を出た。窓の外は既に暗くなっていた。午後六時半。哀は白衣を脱ぎ、それを掴んだまま走り始めた。



 哀はすぐ隣にある大学病院の入院病棟の受付に駆け寄り、カウンターに手をついた。

「すみません、面会したいんですが」
「面会される方と入院されている患者様のお名前を、フルネームでお願いします」

 チェック柄の事務服を着た医療事務員が、愛想もなくマニュアル通りに言った。

「私は灰原哀、入院しているのが工藤新一です。消化器内科でお世話になっているはずですが」
「少々お待ちください」

 茶髪を一つにまとめた事務員がパソコンを叩き、目を見張った後、横にいた先輩らしき事務員に耳打ちをする。その様子に違和感を覚え、カウンターに置いた指を落ち着きなく叩き始めた哀を、先輩らしき事務員が立ち上がって、じっと見つめた。

「灰原哀様。申し訳ございませんが、工藤様への面会はご遠慮頂けますか」

 悪びれもなく言う彼女に、哀は眉をしかめる。

「……どういう事ですか。私は工藤新一の親戚で、同居人ですが」
「しかしながら、灰原様の面会については受け付けかねます」

 話は終わったと再びパソコンに向き始めた事務員を見て、哀は混乱を覚え、カウンターから後ずさるように周囲を見渡した。奥に続く廊下では、点滴をつながれた患者が歩き、見舞客と面会を果たした患者が歓喜の声をあげている。哀は喉元が熱くなるのを覚え、トートバッグを胸に抱いた。
 入院している新一の面会自体が謝絶されているわけではない。となると、哀が面会できない理由はただ一つ。
 新一自身が哀を拒絶しているのだと、哀は理解した。