七月になり、梅雨が明けたのと同時に暑い日々が続いている。
クーラーをかけながらパソコンに向かって原稿を進めていると、スマートフォンが鳴った。一緒に暮らす哀との連絡手段か、仕事の業務連絡でしか使用されない型落ちのスマートフォンに表示された固有名詞を見て、新一は生唾を飲み込んだ。
画面をタップし、通話が開始されたのと同時に玄関のチャイムが鳴る。この古いアパートにはモニタなどあるわけがなく、ドアの覗き口から外の気配を確認した新一は、少し考えてからドアを開けた。
「こんにちは、赤井さん」
むんとした湿気と日差しとともに、スマートフォンを片手に立っていたのは、新一にとって五年ぶりに会う赤井秀一の姿だった。
長身の赤井は少々居心地悪そうに、リビングのベッドの前に座っている。アメリカで暮らす彼にとって、畳の上に座るという事は慣れていないのかもしれない。
「眼鏡をかけているんだな。君が子供の姿だった頃を思い出す」
新一がアイスコーヒーをテーブルに置くと、被っていたニット帽を取った赤井が真っ先に言い、新一はグラスを離した指でフレームに触れる。
「一応、正体隠しのつもり。これでもそれなりに顔と名前は知られているから」
「だけど、以前とは違って度数も入っているようだ」
相変わらずの鋭い指摘に、新一はただ笑うしかない。赤井の言う通り、二十四歳の頃には視力が落ちていた。この地で過ごし始めてから眼鏡をかけて生活をしているのは、変装の為だけではなかった。
「なかなか会いに来られなくて、悪かった」
テレビ台に置いてあるアナログ時計は午後三時を示し、規則正しく小さなリズムを刻んでいた。
「いや、俺もあまり連絡していなかったからさ。父さんには散々言われていたのに」
「優作さんが?」
視線をあげた赤井に、新一は控えめにうなずく。やはり彼にはもっと広い部屋が似合うと思う。相変わらずのくせがかった前髪を眺めながら、新一は少し落ち着かない。
新一の記憶の中では、赤井に最後に会ったのは七年前の二十三歳の十一月、東京の実家でだ。しかし、真実は違う事を新一は知っている。
「有希子さんは、お元気にされているんだろうか」
アイスコーヒーの氷がかちりと音を立てる。新一はうつむき、数年会っていない母親の笑顔を思い出す。目の奥が痛くなり、父と交わした数少ないメールを思う。
「元気だって、父は言ってます。父と最後にメールしたのも何か月か前だけど」
「相変わらずだな」
複雑そうに笑う赤井は、コーヒーを一口飲み、ベランダの見える窓に視線を向けた。
「君が住んでいる場所にずっと訪れたいと思っていた。ここで君は暮らしているんだな。……志保も一緒に」
付け加えたような一言に、新一は畳の上で座り直し、背筋を伸ばした。
「赤井さんでしょ、あいつに俺の居場所を教えたの」
「ああ、何か不都合でも?」
新一に視線を戻した赤井は、肩をすくめる。
「君も、以前に比べたら顔色もいいし、精神状態もいいようだ」
――精神状態。発された言葉にどきりとした。動揺を隠すように、新一は口を開く。
「以前っていうのはいつの事? 七年前の俺の実家での事か、それとも俺が手足を拘束されて檻に閉じ込められていた時の話?」
「新一」
咎めるように赤井は新一の名を呼んだ。彼が新一を、別の愛称ではなく名前を呼ぶ時は、内心怒りを覚えている時だ。赤井の強い口調に、新一は自嘲を見せる。
「……不都合だったと思うよ。少なくとも、灰原にとっては、いい事なんてきっと一つもない」
今でも鮮明に思い出す。五年前、新一の不在に気づいた哀が、赤井からの情報を頼りにたった一人で遠く離れた新一を訪れた夏の出来事。中身はともかく、彼女はまだ中学三年生だったのに、その思いをなじるような行為をした。
哀を傷つけたという事を、ずっと抱えながら新一は生きている。贖罪をする権利すら、新一にはないのだろう。
「そうだろうか。彼女は馬鹿じゃない。彼女の意思で君に会いに来たはずだ」
「あいつは、ただ罪悪感に駆られているだけだ。このままではあいつは幸せになれない」
新一は目の前にあるテーブルに腕をつき、頭を抱えた。自分に最も似合う孤独になる方法を探していたのに、知ってしまったのだ。手放せない温もりの存在を。
「それは、彼女自身が言った事なのか?」
赤井の静かな問いに、新一は頭を抱えたまま、首を横に振る。
「言われなくたって、わかるよ……」
「君が分かったつもりでいても、それは真実とは限らない。そうだろう?」
いつの間にかアイスコーヒーを飲み終えた赤井は、ニット帽を被り、座ったままの新一の頭をぽんと叩いた。自分よりも大きな手に励まされたのは久しぶりだった。
赤井の帰宅後、グラスも片付けないまま、ぼんやりと新一はリビングの畳の上に座り続けていた。西側にある窓の光が色を変えていく。赤井が使ったグラスの中の氷はすべて溶け、グラスの水滴がテーブルを濡らしていた。
赤井と話した事で気づいた。自分の望みは、哀を解放することだ。最初から分かっていた。彼女に会いたくなかった理由。症状が発覚してからも、彼女から逃げるようにして過ごしていた理由。分かっているのに、その先を思うと心臓が握りつぶされそうになった。
ベッドに放置していたスマートフォンが音を鳴らす。哀からのメールだった。今夜は研究で遅くなるから先に寝ているようにとの事だった。
最近、彼女の帰りは以前に増して遅い事が多い。それでも、夜中に帰ってくる彼女の姿に新一は安堵していた。彼女の寝顔は、明日への希望だった。新一は返事をする気力もないまま、再びスマートフォンをベッドに放り投げ、畳の上に横たわった。窓の外は少しずつ光を失っていく。やがて深い夜がやって来る。