さわさわとヒマワリが風で揺れている。鉄格子がかかった窓から見えたヒマワリは太陽を向いていなかった。猛暑とも呼ばれる日々に疲弊していたのは、人間だけではなかったのだろう。
手を伸ばして窓を開ける。たった数センチしか開かない窓からは、熱風のような空気がたちまち部屋の温度を上げていった。空調の効いた無機質な部屋にはちょうどいい温かさだと思った。
断片的にある記憶の中で、一番鮮明なその景色がいつのものだったのか、新一には分からない。
天気は不安定な様子だった。昨日までは真夏日だと言われていたのに、今日は三月並みの気温まで急降下したという。長袖のジャケットを着た新一が指定されたカフェに着くと、そこには待ち合わせの相手がいた。
「よぉ、工藤」
いつかはストーカーのように新一の通院日をチェックしては待ち伏せていた男も、最近は忙しいのか、仕事以外で会うことは少ない。
「服部、悪い。バスが遅れた」
「観光客も多いもんなぁ。今日は体調はどうや?」
「ああ、平気」
それでもあの頃と同じように、服部は今でも新一の体調を一番に気遣っているようだ。
新一は現在、物書きのようなもので収入を得ている。もちろんこれだけでは生活していけないので、探偵時代の頃の貯金を崩しているが、それでも生活に困ることはない。寝る間もなく神経をすり減らしていた頃は何だったのだろうかと今でも不思議に思う。
「原稿、一通り拝見しました。それでちょっと確認したい箇所が何点か……」
編集者としての服部は、新一を目の前にしても突然口調を変えるので、新一は時々戸惑う。誰しもが持つ多面性の中の一つ。服部が警察官を辞めてスーツ姿でサラリーマンとして働いている理由を、新一は今も知らない。
平日の昼間、広々としたカフェ店内には空席もいくつかあった。それでも主婦や外国人によって店内は賑やかだ。服部に言われた点について新一が出力された資料を確認している間、服部はカウンターで購入したコーヒーを席に持ってきた。漂うカフェインの香りに、新一は今朝の事を思い出す。
昨日、病院から帰ってきてから着替えもせずに寝てしまった新一は、午前三時に目を覚ました。隣で哀が眠っている事に安堵し、シャワーを浴びて、リビングの隣の仕事部屋で仕事を進めた。
ごめんなさい、と小さく響いた声は、閉ざされた向こう側での出来事だ。哀による必死な訴えにも聞こえたそれは、果たして真実なのか。新一は自分を問う。許されないことをしたというのなら、むしろ新一の方であることを重々理解している。彼女が自分と一緒にいる理由も。
「工藤、大丈夫か?」
服部の声に、新一はまだコーヒーを一滴も飲んでいないことに気付き、慌てて啜る。心地のよい苦みが喉を伝っていく。
「ああ、大丈夫」
「そういえば、灰原のねーちゃんは元気にしとるんか?」
服部の問いに、新一は今朝の事を再び思い出す。午前七時。仕事を一段落させた新一は、リビングを通り抜けてキッチンでコーヒーを淹れた。起床できた日の朝の、新一の日課だった。現在も時間感覚を失っている自分にとっては、生活の中の一区切りにもなっていた。
流し台の上の棚に置いてあるバリスタが大きく音を立てた時、リビングのベッドで気配が動く。新一は眠る哀に近づき、声をかけると、哀はやや眠そうに目を覚まし、その瞳に新一の姿を映し出す。どうしようもなく胸が締め付けられる日常の一コマだ。
「ああ……、ちょっと忙しそうだけど」
答えながら、昨日大学構内で見た景色を思い出し、コーヒーが伝っていった部分がさらに苦みを増した。新一が答えると、服部はそうか、とただ笑った。
変な眠り方をしたせいで、身体が少々重かった。だけど、眠れなかった日々に比べたらましだ。
七年前、二十三歳の冬、蘭と別れて事務所を畳んだ後の数か月に渡り、新一は不眠症を患っていた。