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 偽りの姿から十七歳の高校生に戻ったばかりの頃の新一の筋力や体力は、想像以上に落ちていた。

「あれだけ身体を駆使して動いていたはずなのに、おかしいな……」

 哀が義務付けた定期的な検査のため阿笠邸に訪れた新一が、ソファーにうなだれるようにしてつぶやいた。

「馬鹿ね。成長期を含めた十年分の時間を、身体だけが負ってしまったんだもの。骨格筋や内臓がそのまま無事だなんて思えるほうがおかしいわ」

 答えながら、哀は細くなった新一の腕に注射針を刺し、血液を採取する。赤い液体の底に沈んでいく赤血球が凝固しないように、哀は撹拌機の中に、血液を移した試験管を入れ、ボタンを押した。
 空いた窓から吹き込む風が、秋の香りを運んでくる。レースのカーテンが、ふわりと揺れる。ソファーに座る前髪を柔らかく揺らしていく。十七歳という時間は、青春時代の一ページとして、人々にとって貴重なはずだった。それは新一にとっても例外ではない。

「工藤君、時間は大丈夫なの?」
「え?」
「予定とか、あるんじゃないの?」

 その貴重な時間を、見た目が小学生である哀と過ごしていいはずがない。チェストに置かれたデジタル時計を眺めながら哀が訊ねると、新一は意外そうに目を丸くし、ふっと笑った。

「大丈夫だよ」

 新一はそうは言うが、哀が止めても聞かなかった修学旅行突破を機に、幼馴染との恋を実らせた事を哀は知っている。それこそ世間が羨む青春時代を送っているはずの新一は、月に一度、検査のたびに訪れた阿笠邸で、こうしてのんびりと阿笠邸のリビングでくつろいでいる。
 哀はコーヒーを淹れるため、キッチンへ向かう。その際、新一の横顔を盗み見る。今は弱っている筋力や体力も、時間が経てば戻るだろう。血液から採取したデータも、問題なかった。
 コポコポとコーヒーメーカーから湯気が立ち、カフェインの香りが漂う。自分の隣を歩いていた眼鏡をかけた少年はもういない。自分に言い聞かせて、哀はマグカップにコーヒーを注ぐ。トレイに乗せて、マグカップを運ぶ。
 秋の日差しが柔らかく部屋を照らす。新一の横顔を照らす。窓の外をぼんやりと眺めている新一の心の中を、視線の先を、哀が知るはずもなかった。



 ふと意識を取り戻す。遠くからは子供達のはしゃぐ声が空気に溶けて響いてくるようだ。つんと古い木造の香りが鼻に触れ、哀はゆっくりと瞼を動かす。部屋の中には強い西日が差し込み、数少ない家具の影を作っていた。
 起き上がろうとして、全身に襲う倦怠感に負けて再び哀はシーツの中に引き戻される。この古い部屋には似つかわしくないほど、シーツの触り心地がよくて、ああやはりここは工藤新一の部屋なんだと再確認する。よく見たらこのシングルサイズのベッドも、有名な家具ブランドのものだった。
 自分の身に起こった出来事を反芻し、哀はシーツを被る。身を潜めるして部屋の雰囲気を感じ取るが、そこには新一の気配がなかった。哀は警戒心を持ちながら、床に落ちてある下着や服をかき集め、素早く身に着ける。床に散らばったままの荷物を拾っていく。新一に投げられた数々の錠剤については諦めるしかない。そもそもそれらは試作品であり、人間に投与するものでもなかった。
 床に落ちていたスマートフォンを拾い、最新のメールを開いた。それは一時間前に送られてきた赤井からのメールで、英語の文面を読んだ哀は目を見張る。急かされるように、哀はスマートフォンの画面をホームに戻し、トートバッグに突っ込んだ。
 バッグを手に持ち、キッチン台のすぐ横にある玄関のドアへと歩く。スニーカーに足を突っ込み、かかとを踏んだままドアノブに手をかけると、哀が押すよりも先にドアが開いた。

「……工藤君」

 そこには、Tシャツにパーカーを羽織った新一が立っていた。右手にはスーパーのビニル袋が下げられている。

「何おまえ、帰んの?」
「……えっと、」

 哀は視線を彷徨わせ、言葉を探す。夏の日の入りは遅い。今からタクシーにでも乗って駅に向かえば、東京に帰れると一瞬でも思った。しかしそれを言葉にするのは躊躇われた。バッグに入れたスマートフォンの重さが肩にのしかかる。新一の瞳に影が宿っている事に気付かなければ、きっと彼を押しのけてでもこの場を去ることができるはずだった。
 先ほどのベッドの上での出来事を思い出す。哀を好きなようにして抱いた新一と初めて目が合った瞬間。彼の中には確かに彼自身が生きていて、動揺と葛藤で揺れていた。彼が身を隠すようにしてこの場所にいる理由。ここはきっと、彼が選んだ孤島だったのだろう。
 負の感情は連鎖する。時間差を置いて、哀の中にぽたりと何かが落ち、全身に染み渡るように巡った。身体の節々が痛むのは新一のせいだ。だけど、それを声に出したらもう二度と新一に会えなくなる気がして、頭の中で言葉を探した。

「じゃあ、今日泊めてくれるというの?」

 思わず挑発的な声色になり、哀は自分自身に失望した。こんな仕打ちを受けて、彼自身だって哀を求めているわけではない事くらいわかっているのに、こんな状態であっても彼の傍にいなければならないと強い願望が芽生えてしまった。
 どうあがいても、自分は目の前に突っ立っているこの男への想いを忘れていない。ひどい事をされたと軋む身体が悲鳴をあげているのに、自分を見下ろす眼鏡越しの視線は相変わらず冷たいままなのに、哀はランドセルを背負った頃の景色を思い出す。そして、新一が十七歳の姿を取り戻した頃の秋の風を思い出す。
 秘めた想いは心の中でくすぶり、神経を麻痺させる。あの頃の新一が何を思っていたか、哀は理解しようとしていただろうか。実らせた恋に浮かれた新一を見たくないと言い訳して、距離を置いたのは哀のほうだった。今の状態について、関係ないと突き放せるほど、自分の身体の中に冷たい血が流れているなんて思いたくもなかった。
 哀の言葉に、新一はふっと笑い、サンダルを脱いで部屋に入ってキッチン台に買ってきたものを並べた。

「灰原」

 スニーカーの踵を潰して履いたままの哀を、新一が呼ぶ。顔を向けると、新一は手に持ったスポーツ飲料水のペットボトルを哀に渡した。手に持った瞬間、ペットボトルに浮かんだ水滴が手のひらを濡らす。再び冷たい感情に襲われそうになっていると、新一が哀の顎をつかみ、キスをした。

「そろそろ夕飯にしようぜ」

 新一の瞳に光が生きている。まるで日常的に繰り広げられてきたやり取りであったみたいな雰囲気に、哀が戸惑いながらうなずくと、新一は小さく笑った。昔の笑い方と同じだった。
 いつの間にか西日が弱くなり、キッチンに置かれた時計は午後七時を示していた。