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 八月中旬になっても暑さは相変わらずだ。それも盆地にもなれば顕著になる。哀はスマートフォンに寄せられた情報を頼りに、住宅街の中を歩く。関西某所の夏の景色。町屋と呼ばれる趣きある古い家々が、狭い路地に密集した先に、目的地はあった。
 所狭しに立てられた古い木造二階建てのアパート。部屋番号は二〇一。取り付けられた鉄製の階段を上ると、わずかに軋んだ音が響いた。
 古いドアの横にあるチャイムを鳴らすと、ドア越しに人が動く気配が漂い、哀は汗を拭う。喉がからからに乾いていた。

「はい……」

 ドアホンもないアパートの一室。ドアから顔を出した新一は、哀の姿を見るなり顔を歪めた。

「灰原……、おまえ、何してるんだ……?」

 久しぶりに見る姿は、哀のよく知る新一とはまるで違った。露出が減ったとは言え、高校生探偵あがりの日本の救世主をマスコミは放っておかなかったし、頭脳明晰さだけではなく、母親譲りの容姿端麗さについても世間はもてはやしていた。しかし、哀の目の前にいる新一は、ひどく痩せ、無精ひげを生やし、よれたスウェットを着たうえ、髪の毛も乱れていた。しかし、いつかを思い出させるような黒縁眼鏡をかけた彼の姿に、哀は一瞬声を失い、ゆっくりと息を吸った。

「あなたこそ、何をしているの……」

 新一の顔色を見て胸騒ぎばかりが大きく膨らんだ。自分の中にあった予感が当たったのかもしれない。哀の固い声に、新一は顔を歪めて笑った。



 正直なところ、哀は探偵ではないし、誰かについて根掘り葉掘り調べる事に向いていない事は自覚している。夏休み真っ只中の八月、窓の外からは今日も容赦なく太陽が差し込んでいる。蘭が阿笠邸に訪れた翌日の午前十一時、哀が電話をかけると、相手は意外そうな声をあげた。

『おや、これは珍しい電話だな』

 電話越しで聞く声は相変わらず渋く響き、哀は嘆息をする。

「そちらではこんばんは、で間違いなかったかしら」
『こっちは日本と違って時間感覚が鋭敏ではないからな。ハローで結構だ。……何の用だ?』
「ハロー、赤井秀一」

 博士に用意してもらった自室に置かれたベッドに座り、哀は窓の外を眺める。

「単刀直入に聞くけど、あなた、工藤新一の居場所を知らない?」

 電話の相手であるFBIに所属する赤井秀一に哀が訊ねると、赤井は隠すつもりがないのか、ふっと通話口で笑みを零した。

『なぜ俺に訊く?』
「少なくとも、彼が最も隠したい子と交友関係のある人間は却下だし、だからと言って何の保険もかけずに彼が一人で失踪するとは思えない」
『保険、か……』

 哀の辛辣な言葉に、赤井は可笑しそうに復唱した。昨日、蘭が阿笠邸を出た後、哀は一通り調べてみたのだ。蘭の言う通り、服部平次はもちろん、毛利小五郎も知らぬ存じぬを貫いた。それが本当かは分からない。しかし、蘭に隠している事を哀に打ち明けるような者達ではない。そして、新一が二十歳と同時に設立したはずの工藤探偵事務所は廃業されており、法的手続きも完了しているとホームページにこれまでのご愛顧への感謝と共に記されていた。
 予測不能な事件に巻き込まれたにしては用意周到すぎる。これは明らかに、新一の意思があって姿を消しているという事で間違いがなかった。

『志保』

 赤井のいるニューヨークが示す時刻は午後九時、まだ彼の仕事は終わっていないのかもしれない。通話口の遠くからは軽やかなネイティブな英語が弾んで聞こえた。

『俺の知る限りの情報を送るよ。ただし、あの子には言わない方がいい』

 赤井秀一の話すあの子、という単語に意味を持つのは、ただ一人。工藤新一の幼馴染であり、元恋人だ。窓の外に浮かぶ青空をガラス越しに眺めながら、哀は問う。

「どうして」
『俺達の知る工藤新一は、もう存在していないからさ』

 赤井の声と同時に、タブレットにメールが届いた。そこには関西にある住所が記載されていた。いつの日か姿を消した新一に会いに、哀は行かなければならなかった。
 二十歳を過ぎたといっても、哀が与えた解毒剤の影響がないとは言い切れないのだ。