1-1



1.蒼い孤島



 灰原哀の住む阿笠邸のチャイムが鳴ったのは、蝉ももだえるほどの暑い夜だった。

「こんばんは、哀ちゃん……」

 玄関のドアを開けると、そこには久しぶりに見る姿があった。

「蘭さん……」

 毛利蘭の着る白い薄手のカーディガンが外灯に照らされている。よく考えたら彼女の年齢は二十五歳で、とうに学生時代を終えた彼女の姿は大人の女性そのものだ。しかし、八年前には子供であった自分達に対して、はつらつとした笑顔で世話を焼いてくれた彼女からは想像もつかないほど、彼女の表情には疲弊が漂っていて、哀は手で押さえていたドアを大きく開ける。

「どうしたの? 何かあった?」

 昔は大きかった身長差が、今ではほとんど同じ目線の高さになっていた。気遣うように哀が蘭の顔を覗きこむと、蘭の大きな瞳には涙が浮かび、頬に一筋流れた。

「哀ちゃん……、新一が今どこにいるか、知っていいたら教えてほしいの」

 阿笠邸のリビングで、蘭は哀の淹れたコーヒーに手を伸ばす事もなく、ソファーに座ったままうつむき続けていた。

「蘭さん、さっきの話だけど……」

 蘭の正面に座った哀が言葉を探していると、哀の隣で家主でもある阿笠博士も神妙な面持ちで言葉を重ねる。

「新一君の居場所についてじゃったな。君たちは付き合っていたじゃろう、何があったんじゃ?」

 博士が訊ねると、蘭は肩を震わせながら涙を拭い、ようやく顔をあげた。

「私達、二年前に別れているんです」

 はっきりとした口調でつぶやいた蘭は、コーヒーを口に含み、ゆっくりと話を始めた。

「私も新一も仕事が忙しくなって、二年前に別れました。それから連絡はとっていなくて……、それでも私にとって新一は大事な人だし、幸せになってくれたらそれでいいって思っていました。だけど、高校の同窓会を企画した友人から新一に連絡が取れないんだけど何か知らないかって聞かれて、久しぶりに連絡をしたら番号は変わっているし、新一が住んでいた部屋も引き払われているし、隣のおうちにも人が住んでいる気配なくて、ご両親にも連絡つかないし……、どうしよう、高校の頃みたいに、新一はまたいなくなっちゃったのかな……」

 再び涙を溢れ出した蘭を見て、哀の心が痛む。あの頃の出来事が今でも大きな傷として彼女の中に残っているのを目の前で見てしまい、かける声が見つからない。しかし、八年前とは明らかに違う点がある。
 十七歳の新一が失踪した時、彼はあらゆる手段を使って蘭との繋がりを切らさないように必死だったはずだ。しかし、今彼女が話した内容が事実であれば、今度こそ新一は連絡手段すらとれない状況下におかれているのかもしれない。哀は冷える喉元を紛らわすように、生唾を飲み込んだ。

「蘭君、君たちの共通な知り合いがおるじゃろう。例えば、ほれ、服部君とか」
「和葉ちゃん経由で聞いたけれど、何も知らないって……。それで、博士や哀ちゃんなら何か知っているんじゃないかって……」

 再び嗚咽を漏らし始めた蘭に博士がティッシュを箱ごと渡すのを横目に、哀は思考を巡らせる。いつからか米花町から数駅離れた場所にマンションの部屋を借りて一人で暮らしていた新一の姿を、ずいぶん長い事見ていない。そもそも中学生の哀が探偵業で忙しいはずの新一との接点が多いはずがない。蘭の視線を感じた哀は、慌てて視線を逸らす。

「蘭さん、毛利探偵には相談したの?」

 嘘をついているわけではないのに、後ろめたさに襲われながらも哀が訊ねると、ティッシュの箱を膝に置いた蘭は首を縦に振った。

「相談したわ。でも、関わるなの一点張りで……。私達が別れた事を、お父さんは全部新一のせいだと思っているみたいで、新一を許していないの……」

 蘭の返事を訊き、哀はコーヒーを飲み込む。本当に失踪しているのだろうか。もしかしたら、新一は今度こそ、完全に姿を消そうとしているのかもしれない。それも事件に巻き込まれたわけではなく、新一の意思で。
 先ほどクーラーの温度を弱く設定したはずなのに、やけに肩元が冷えた。グラスの水滴が表面張力を持ってテーブルを控えめに濡らしていく。
 多くの事情が絡み合った事で、蘭よりも博士や哀のほうが新一について詳しく知っている事は多い。それでも、現在の新一の所在については、博士も哀も何も知らなかった。正直にそれを伝えると、蘭は急に夜分に訊ねてきた事を詫びて、阿笠邸を出て行った。

段落分け

 蘭が阿笠邸を出てから二時間後、シャワーを浴びた哀は自室のベッドの中で眠れずに寝返りを繰り返していた。シーツの感触がやけにリアルに肌に沁み渡る。
 哀は目を閉じて、八年前の、偽りの姿で過ごした日々について考える。シーツの感触よりもずっと遠い肌触りの出来事に、それはまるで夢の中のものようだ。そして、最後に新一に会った日の事を思い出せないくらい、新一との繋がりが薄くなっていた事に、時間の流れを思う。七年前、新一が偽りの姿から本来の姿に戻った時、しばらくの間哀は解毒剤による副作用が発現していないか確認していたが、新一が探偵業を始めた二十歳を区切りに、その時間もなくなっていった。
 今夜も熱帯夜だ。空調の効いた部屋は肌寒く、哀は夏用の布団に潜り込む。あらゆる可能性が頭の中に浮かび、その夜は眠れなかった。