キッチンにある梳きガラスの窓の前には、二人分の歯ブラシが透明なグラスに立て掛けられている。青とピンク色の歯ブラシ。陳腐な恋愛ドラマにすらない即物的な視覚的表現に、灰原哀は苦笑を零しながら、シンクに置いてあった食器をスポンジで丁寧に洗っていく。炊飯器の横に置いてあるコーヒーメーカーからはカフェインの香りが漂っていた。
築二十年は経っていると思われる二階建て木造アパートの二階にある1LDK。春から夏に向かうこの季節、ベッドも置かれているリビングには清々しいほどの光が降り注いでいる。東向きに位置する玄関兼キッチンはフローリングのせいか、畳のリビングに比べたら少しひんやりとした空気が漂っているが、哀はそれを嫌いではない。
テレビのついていない室内は非常に静かで、アパートのすぐ傍にある小さな公園では近所の子供達の声が響いている。いつの時代も子供の無邪気な声が日々を癒してくれる。少なくとも、哀にとっては。
「工藤君」
リビングの隣の部屋に声をかけると、襖越しにごそりと人の動く気配が漂った。
「工藤君、コーヒーを淹れたわ。調子はどう?」
この襖を哀が開ける事はない。しばしの沈黙の後、ゆっくりと襖が開いた。この狭い部屋の主である工藤新一が、のっそりとリビングへと足を踏み入れる。
「まあまあ、かな」
哀の問いに対して曖昧な返事をした新一は、昨日までは無精ひげを生やしていたはずなのに今日はすっきりとしている。仮眠はとれたのだろうか。最近の新一は忙しそうで、奥の和室にこもっている事が多い。だけど、今日は特別な日だ。
世間は連休の真っ只中、夏の予感が香る五月四日。ベッドの前にあるテーブルに置かれたマグカップに手を伸ばした新一は、ベッドにもたれるようにしてコーヒーを啜った。もう少し季節が進めば、氷一杯のグラスにコーヒーを注ぐ日が訪れる。
「三十歳おめでとう、工藤君」
哀も新一の隣に座り、つぶやくと、マグカップをテーブルに置いた新一がサンキュ、と微笑んだ。久しぶりに見る笑顔に、哀の心が痛む。
時間は刻々と流れ続けていく。それらから逃げるように、テレビを付ける事もないし、必要以上にネットを見る事もない。閉ざされた世界の中で、耳に入るのは無邪気な子供達の遊ぶ声。郷愁めいた感情が胸を突き刺したところで、この空間は行き先を見失っている。
「ついに三十路か。あんまり実感ないけど」
「そんなものなんじゃない?」
哀の肩に頭を寄せる新一の髪の毛を撫でながら、哀は微笑む。
「ゆっくり生きていきましょう。私達に未来はないのだから」