昨日に降った雪も、午前中にはすっかり溶けてしまった。東京の空に差し掛かっていた低気圧はどこかへ消え、澄んだ空気の中で太陽の光が眩しく地面を照らす。
「哀ちゃーん」
それでも気温の低さに対して太陽の熱は負けていて、哀が手先を擦りながら昇降口で靴を履き替えていると、長い黒髪を揺らしながら歩美が下駄箱の向こうから顔を覗かせた。
「吉田さん…」
「もう帰るの?」
「ええ。吉田さんは部活じゃないの?」
凍える手に息を吹きかける。寒いと分かっていても、薄暗い玄関よりもドアの向こう側が楽園のように見えた。昨日生徒達によって作られた小さな雪だるま達はもういないけれど。
「インフルエンザにかかった子がいたみたいで、いったんお休みになったの」
哀の問いに、歩美も隣の下駄箱から靴を取り出しながらつぶやいた。彼女はセーラー服がとても似合う。哀は哀で日本人離れした顔立ちや年相応ではない態度でクラスの中でも浮いた存在だったが、歩美の注目のされ方はまた違った。違う意味で人目を引いていた。
子供の頃にあんなに荒んだ数々の現場を目の当たりにしてきたのに、歩美の瞳は今もまっさらに透き通っている。
「だから哀ちゃん、一緒に帰ろう?」
昇降口のドアを開けながら歩美が笑う。太陽の光が歩美を照らす。まっすぐな歩美の視線を恐怖に思った事もあったが、小学五年生の夏の喧嘩を境に、お互い一定の距離を置くようになってからはそれらも消えて行った。それでも、コナンが帰ってくる場所を守ろうという歩美の言葉は、今でも哀の心の中で生きている。
「そういえば元太君から聞いたよ。今度テスト勉強をみんなでやるんでしょ? 歩美も頑張らなくちゃ。哀ちゃんと同じ高校に行きたいし」
メゾソプラノの歩美の声を聞きながら、哀は正門に黒いセダンが停まっている事に気付く。約束通りだ。隣を歩く歩美にどう声をかけようか迷っていると、
「――灰原」
車から降りていた新一が、正門の傍に立っていた。生徒達がちらちらと振り向くのも気にしないで、スーツ姿の新一は哀に笑いかける。
「え? 新一さん?」
新一の突然の登場に、歩美は目を白黒させながら、哀と新一を交互に見比べた。
今朝の約束通り、新一は哀を迎えに来たのだ。答え合わせをする為に。夢の時間はもう終わりなのだと哀は思った。何も償う事ができなかった。いつだって自分を守ってばかりで、本当はこの時が来るのを恐れていたけれど。
新一も歩美と同じように光の中で生きている。その時間に触れる事ができてよかったと思う。
「吉田さん」
新一の前に立ち止まったまま、哀は視線を落としてつぶやいた。瞼の中で光が消えない。彼の中で江戸川コナンが消えた時、哀の心は一度死んだはずだった。
「私、江戸川君が好きだったの……」
取り残された世界はとても優しいもので、迷う事なく哀は生きてきたつもりだ。
だけど新一を目の前にすると、哀は迷子になるのだ。そして思い出してしまった。自分を灰原と呼ぶ幼い声、眼鏡の奥で細められる瞳、一番大事なものがあるのに、哀の事だって放っておけなかった残酷な優しさも。
「知ってるよ」
歩美は哀の背中に手を置いて、小さくつぶやいた。歩美の黒い髪の毛が揺れる。二、三度哀の背中を軽く叩いた後、歩美は言った。
「私、忘れ物しちゃったみたい。哀ちゃん先に帰ってて」
そして走って行くローファーの音を聴きながら、それが彼女の嘘である事に哀はぼんやりと気付く。息を吐いて顔をあげると、新一が困った顔で哀を見下ろしていた。
「……帰ろうか、灰原」
核心に触れないように、新一が車のキーを指先で回す。哀はうなずいて、助手席に乗った。
二年前に乗った時の車内は新車特有の匂いで満ちていたのに、今では新一のつける香水がかすかに香っていた。
「車、買い替えないの?」
「おまえ、しょーもないところでセレブ思考だな。この車買ったのたった三年前だぜ?」
帝丹中学校から米花町まで、見慣れた景色を眺めながら、他愛のない会話を広げる。
車に乗った時、新一は哀に訊ねた。どこか行きたい所はないのかと。どこも思い浮かばなかった。結局車は工藤邸へと向かっている。元々徒歩でも時間がかからない距離だ、あっという間に車は工藤邸へと到着し、哀は助手席から降りた。二年前、博士が救急車で運ばれた時、新一が哀を気遣ってドアを開けてくれた事を思い出す。
もう哀は大人になったのだと思う。哀が車から降りた時には、すでに新一は玄関の鍵を開けていた。新一に続いて、哀も家の中へと入る。キッチンの土鍋は空になって、シンクの上に置かれた食器カゴに入っていた。
「お粥、朝飯に食べさせてもらったよ。本当、助かった」
襟元のネクタイをゆるめながら、新一が言った。
「体調はどうなの?」
「もう熱もないし、咳も出てないし、問題ないよ」
「……今日はどこまで仕事してきたの」
「横浜」
新一の仕事中毒ぶりに呆れながら、哀は新一に促されるままリビングのソファーに座る。新一は淹れたコーヒーをリビングに持ってきた。いつもの光景とは逆だ。
「灰原」
コーヒーの香りとともに、新一の声が曖昧に響く。
「俺が、江戸川コナンを消し去ってしまったんだな。…ごめんな」
思いもよらない謝罪の言葉に、哀は隣に座る新一に振り向いた。
「何を言うの? 本来は江戸川コナンが存在してしまった事が間違いだったのよ。分かってるんでしょう?」
「ああ」
うなずきながら、新一が哀の瞳を捕える。
「分かってる。でも、きっとその頃の俺も幸せだったはずだ」
新一の指が、哀の髪の毛に触れる。
「どうしてそう言い切れるの…」
力なくつぶやいた哀に、新一は小さく笑った。
「おまえに救われたから」
そうして、哀から指を離し、ソファーに背を預けるように深く座りこんだ新一に、哀は言った。
「違うわ。あなたを救ったのは、あなた自身だったのよ」
ゆっくりと哀に顔を向ける新一の揺れる瞳を見つめながら、哀は長い時間をかけて新一の心を探していたのだと知る。遠くに感じていた心が近付いた時、旅は終わりを告げるのだ。