――だって哀ちゃん、コナン君を見ているような目で新一さんの事見てるもん。
歩美にそう指摘されてから一ヵ月近くが経った頃、夏休みの登校日に久しぶりに歩美と話をすることができた。博士の家での歩美の発言によって哀はかっと頭を熱くしてしまったけれど、よく考えれば大人げなかったと思い、反省をしていたのだ。
「ごめんね、哀ちゃん」
先に謝罪の言葉を述べたのは歩美のほうだった。大人なのは歩美なのかもしれない。
「お節介だったよね。でも歩美、哀ちゃんの事を気にしてたの」
「私の事?」
登校日の帰り道、哀が訊き返すと、白いレースのブラウスを着た歩美が視線をアスファルトに落とした。
「哀ちゃんはコナン君の事が好きなんだと思ってたから…」
そこまで言いかけて、歩美は足を止めた。反射的に隣を歩いていた哀も立ち止まる。ランドセルによって背中が熱い。梅雨はとうに終わり、熱中症になっても不思議ではないほどの日光が住宅街を照らしている。
「違う、そうじゃないんだ」
「吉田さん?」
「違うの。ほんとは、哀ちゃんがコナン君じゃない別の誰かを好きだったらいいなって思ったの…」
硬くつぶやき、歩美は顔をあげて哀を見た。思いの外すっきりとした表情をしていて、拍子抜けした。
「歩美ね、この前偶然新一お兄さんに会ったの。コナン君に似てるって思ってたけれど、やっぱり違ったみたい。それに…、新一さんもコナン君の事を教えてくれないし、歩美もやっと分かったんだ」
そうか、人は想いの丈を超えるとこんな表情をするのかもしれない。清々しいほどにこやかに話を続ける歩美を見て、哀は口をつぐんだ。
「歩美はコナン君には釣り合わなかっただけなんだよ。だから、もういいんだ」
いいわけがない。じゃっかん小学五年生にして、こんな喪失感をもたらせてしまったことに哀は言葉を失い、ただランドセルの肩紐を掴む。歩美の顔を見る事ができなくて視線を彷徨わせていると、
「哀ちゃん」
歩美が優しく呼んだ。
「少年探偵団はずっとここにいようね。コナン君が帰って来られる場所を守ろうよ」
その言葉に、哀はうつむいたまま涙をこぼした。熱を持ったアスファルトが濡れた。
混沌とした大人の世界に半ば強制的に連れられた少年探偵団の三人を守らなければならないと哀は思っていた。しかし、守られていたのは哀のほうだった。
ふと哀は瞼を動かした。いつかの景色を思い出していた。あれは小学五年生の夏の出来事だった。哀は新一への想いを自覚し、でも歩美にそれを言う事はできなかった。誰にも言えるわけがなかった。
時計を見ると午前六時。寝たり起きたりと浅い睡眠を繰り返し、頭がぼんやりとする。窓の外は暗い。カーテンをそっと開けると、もう雪はやんでいるようだった。少しばかりアスファルトに積もっていた雪も溶け始めている。
哀はベッドから出て、部屋着にカーディガンを羽織った。小学生高学年の頃から別室で寝るようになった博士がまだ寝ている事を確認し、再び合鍵を持って工藤邸に向かう。
そっと工藤邸に入ると、景色は昨夜と変わっていなかった。キッチンを確認すると、哀が昨夜作ったお粥はそのまま置かれている。新一はあれからもずっと眠っているのだろう。様子を見に行こうとして、哀は足を止めた。
――ごめんな、灰原。
まるでコナンのような、影を持った瞳を向けた彼に触れられた唇が熱い感触とともに実感を残した。二階に意識を向けないように、リビングの奥にある書斎のドアを開ける。この部屋に入ったのは何年振りだろうか。本棚に目を向けると、江戸川乱歩とコナンドイルの全集が並んでいて、江戸川コナンの名前の由来を思い出す。
もし、彼があのアポトキシン4869を服用しなかったら――。
そこまで考えて、哀は自嘲する。きっと新一は世を欺く事を知らないまま、記憶喪失に悩む事もないまま、素直にまっすぐに生きていただろう。哀は新一の未来を奪ってしまった。そんな事は分かりきった事だった。
ありがとうだなんて言われる筋合いなどない。哀はため息をつき、書斎の机に目を向けた。そこには一つの写真立てが置かれていて、哀は目を見張った。
そこに映っていたのは少年探偵団の五人だった。まだ小学一年生の頃の、眼鏡をかけたコナンが哀の後ろで微笑を浮かべている。
「江戸川君…」
久しぶりに見るその姿に、哀は再び泣きそうになった。昨日あんなに泣いたのに、眠る新一の傍で泣き、戻った阿笠邸でも泣き、この身体から水分が枯れてしまいそうなほどの涙を出し切ったと思ったのに。
どうしてこの写真がこんな場所に、わざわざ写真立てに入れられて置かれているのだろう。いくら幼い三人と親しくても、こうして写真を飾るほど新一は彼らに思い入れがあるはずがない。
――コナン君が帰って来られる場所を守ろうよ。
歩美の言葉が脳内で響いた時、
「――灰原?」
突然の声に、哀は小さく悲鳴をあげ、写真立てを落としそうになった。振り向くと、ドアに寄りかかるように新一が立っていた。パジャマ姿ではなく、スーツ姿だ。昨夜あんなに熱にうなされていたのに、もう仕事に戻るとでもいうのか。
「く、工藤君…。具合はどう…?」
「ああ、もう大丈夫だ。昨日は悪かったな。キッチンにあるお粥も灰原が作ってくれたのか?」
「え、ええ…」
そっと机に戻した写真立てから指を離したが、新一の観察眼を欺く事はできなかったようだった。哀の手元を注意深く見つめた後、再び視線を戻し、自嘲するように笑う。
「俺、昨日の事あまり覚えてねーんだ。事件現場から帰っている途中に雪に降られて、おまえに会いに行ったところまでしか記憶にない」
「…そう」
やはりあの夜中の会話は彼の潜在意識によって起こったもので、今を生きる工藤新一とは対岸の場所にある出来事だったのだ。落胆してしまった自分自身に哀は呆れ、それを顔に出さないように無表情を保って新一を見た。
「昨日の今日で、仕事をするつもり?」
「ああ、俺は探偵なんだ」
得意げに語るその顔色はまだ青白い。
「灰原」
だけど、哀を見つめる視線はまっすぐで、彼が江戸川コナンであった事の唯一の証拠のように思った。
「――答え合わせをしよう」
意を決したような新一の言葉に、哀はゆっくりとうなずいた。