肩から伝わる新一の体温はやっぱり熱い。哀は眉を寄せ、新一の手首を掴んでいた手を離し、そのまま新一の額に触れた。汗ばんだ額はやはり熱を持っていた。
人を傷つけることを何よりも嫌う彼の弱音も、この体調によるものかもしれない。
「工藤君。やっぱり熱があるみたいだから、とりあえずあなたの家に帰りましょう。私は薬を持ってからすぐに行くから、着替えてちゃんと寝ていて」
いつまでも玄関先で話していても寒さが増すだけだ。新一の体力はどんどん消耗し、セーラー服を着ただけの哀は外気に体温が奪われる。
哀の肩に縋っていた新一を抱き起こすようにすると、新一はゆっくりとうなずいて、隣の門を開けて工藤邸に入って行った。それを見届け、哀は地下室から体温計と薬を手に取り、そしてキッチンに寄ってペットボトルを一本持つ。寝室から博士のいびきが聞こえるのを背に阿笠邸を出て、新一の後を追うように工藤邸に入った。
重い扉を開けると、古書の匂いが漂う。工藤邸の本の数は恐ろしく多い。新一は既に寝室に入っているのか、リビングはひどく静かで、空気が冷たい。
工藤邸に入るのは久しぶりだった。哀は階段を上り、新一の部屋を探した。少しだけドアが開いている部屋を見つけ、そっと中を覗くと、新一は奥にあるダブルベッドに既に入り込んでいた。床には脱いだスーツが無造作に投げ捨てられている。よっぽど体調が悪いのかもしれない。
「工藤君。薬を持ってきたわ。まずは体温を測って」
哀はベッドのサイドテーブルに薬とペットボトルを置いた。体温計を新一に渡すと、新一はゆっくりと起き上がってそれを脇に挟んだ。すぐにアラームが鳴り、哀はそれを確認する。九度を超えている。哀は解熱剤を飲むように新一に錠剤を渡した。
「――人を殺しそうになったって言ってたわね。何があったの?」
新一が薬を飲み、落ち着いた頃、哀はベッドサイドに立ったまま静かに訊ねる。新一は肩まで布団を被ったまま、光の伴わない瞳を哀に向けた。
「…俺が解決した事件の犯人が、自殺しようとしたんだ」
ぽつりとつぶやいた新一が、ゆっくり目を閉じた。
先ほど電源を入れた暖房が音を立てて部屋を暖めようとしている。その風を感じながら、哀はコナンを思った。犯人を追いつめて自殺させない事は彼の信条だった。どんな人間の命も尊重していた。だから哀の事も受け入れてくれたのだ。
暖房の音とともに、新一の寝息が聞こえ始める。額にうっすらと汗が浮かび、寝息も整わず、苦しそうだ。新一の頭を撫でようとして、思いとどまり、哀はベッドから離れた。そして脱ぎ棄てられたスーツをクローゼットに入れ、一階へと降りる。
起きた時の為にお粥でも作った方がいいかもしれない。そう思い、一度阿笠邸に戻って、食材を持って再び工藤邸に戻る。生活感のかけらもないキッチンではあるものの、さすがに昔は家族三人で暮らしていた家でもあるので、調理器具は豊富にそろっていた。
簡単にお粥を作った後、汗の状態を確認しようと哀は再び二階へと上がる。時計は既に零時をまわるところだ。
タオルを持って再び新一の部屋に入る。新一は先ほどと同じ姿勢で眠っていた。哀はそっと新一の額に触れる。まだ熱は下がっていない。
持っていたタオルで新一の額の汗をふき、哀は制服のスカートの気を付けながらベッドの傍に座りこんだ。
時折新一は呼吸を乱し、うなされた。高熱の時にはよく悪夢にうなされるものだけど、やはり近くで見ているのはいたたまれない。
「…工藤君」
六年前、哀はいつも悪夢に襲われていた。そんな日は姉を思い出して、危険だと分かっていても誰もいない姉の部屋に電話をかけていた夜もあった。そんな日々から救ってくれたのはコナンだった。
悪夢の辛さを知っているつもりだ。だから哀が何度か新一の名前を呼ぶと、新一は静かに目をあけた。
「工藤君、大丈夫…?」
そう声をかけると、新一は泣きそうな顔のまま目を細め、灰原、と呼んだ。そして手を伸ばし、新一の顔を覗きこんでいた哀の頬に触れた。
「ごめんな、灰原…」
指先がとても熱い。新一は熱っぽい瞳で哀を見つめ、苦しそうな呼吸と共にかすれた声でつぶやいた。
「解毒剤、作ってくれたのに…、ありがとうって言えなかったんだ…」
暖房が効いているはずなのに、すっと喉元が冷えた。
「おまえを守るって言ったのに、守れなくてごめん…」
新一の目の色が先ほどとは変わっていた。新一はそのまま両手で哀の頬に触れ、耳に触れ、そして頭ごと抱き寄せるようにして、そして口づけた。
触れる唇もやけどしそうなほど熱い。
「……えどがわ、くん?」
唇が離れ、思わず哀はつぶやいた。彼を忘れようと封印していた名前だった。
新一は弱々しく微笑み、哀の髪の毛を撫で、目を閉じた。哀が呆然と唇の熱を思い出している間に、新一は再び寝息を立て始めた。
「江戸川君…」
その名前を声に落としただけで、心の中に押し留めていた感情が溢れ出す。
哀は一人だった。だって江戸川コナンはもういない。運命共同体とまで言ってくれた彼は、もうどこにもいない。本当は記憶を失くしてなんか欲しくなかった。哀を覚えていて欲しかった。本当は、江戸川コナンのままで哀の隣を歩いて欲しかった。
新一を救いたくて、新一を取り戻してくて解毒剤を作っていたはずなのに、本当はコナンの傍にいたかったのだ。
これこそが罪なのだと思い、哀は一筋の涙をこぼした。強欲に考えたから、何もかも失ってしまった。
心から新一の幸せを願っていれば、きっと解毒剤を直接渡す事もできたはずだった。
「私だって、あなたに何も言えてない……」
哀は座り込んだまま、両手で涙を拭った。それでも拭いきれない水滴は、哀のスカートを濡らす。
コナンがいたから哀は強くなれた。運命から逃げずに生きようと思えた。それを伝えられない。もう二度と伝えられない。
コナンに会いたかった。強い光を持つ彼に会いたい。だってコナンの中で生きていた哀の姿は行きどころを失ってしまった。――哀は、独りだ。
こうして新一の傍にいても、哀の心は新一に届かない。
窓の外ではいつの間にか雪がやんでいた。哀は鼻をすすりながら、ぼんやりと窓の外を眺める。
唇に残る熱い感触だけが今の哀を救う気がした。感情が溢れた事によって生まれた大きな穴を塞ぐように、哀は胸を押さえたまましばらく泣いた。