5.One


 朝、目を覚ますといつも以上に空気が冷たく、カーテンを開けると雪が降っていた。
 米花町で雪が降るのは年に一、二回程度の事で珍しい。きっと学校内は浮足立って、運動場では授業そっちのけで雪投げ合戦が始まるかもしれない、と哀はこれまでの経験を元に、その様子を頭の中に思い描いた。
 博士と朝食と摂り、コートを羽織ってマフラーを首に巻き、外に出る。アスファルトにはうっすらと雪が積もっている。雪国の人が聞いたら笑うかもしれないけれど、何の整備も整っていない地域での積雪は、例え1センチでも大イベントで、大パニックだ。

「あ、灰原さん!」

 この寒いのによく知る声が明るく響く。通学路の途中の交差点で、哀は光彦と元太に出会った。

「おはようございます」
「おはよう。二人とも朝から元気ね」
「だって今年初めての雪だぜ? もしかしたら授業休みになって運動場で遊べるかもしれねーしよ!」
「元太君、そういうのは小学生までで、普通に授業がありますよ…」

 二人の会話を聴きながら、自分よりも背の高い二人と肩を並べて歩く。二人とも学ランがよく似合う。
 穏やかな空気を感じながら、哀はいつかの雪景色を思い出していた。このように平和な日常に溶け込み始めた日々の中での出来事だった。少年探偵団と歩く小学校からの帰り道、隣には江戸川コナンが屈託のない笑顔で歩いていて、そして見つけたのだ。組織に繋がる車を。
 雪が血の色で滲んだ。文字どおりの出来事だった。

「なー、灰原」

 元太の声に哀は顔をあげた。六年前の冬に脳内トリップし、二人の会話を聞いていなかった。

「ごめんなさい、何?」
「だからさ、オレ、勉強苦手だしよ。今度歩美も呼んで勉強会しよーぜ」

 元太の提案に光彦もうなずいている。中学生のスケジュールは大人が思う以上にシビアだ。中学一年生の冬、小学生の頃には想像もしなかった量のテストの多さと、そして二年後に控える受験に対する不安が生徒の間に漂っている。哀は三人と過ごす時間を考えながら、もう命を狙われる心配はないことを再確認する。
 自分のせいで三人が危険に巻き込まれる事はないはずだ。

「いいけど、あまり私をあてにしないでね」

 空から降り続ける雪は止む気配を見せない。



 下校時間にもなれば空の色は薄暗くなる。もう冬至は終わったとはいえ、まだ日の入りは早い。
 その日はずっと雪が降り続けたが、光彦の言う通り授業は予定通り行われた。哀の日常は雪くらいでは変わらない。
 帰宅後、阿笠邸に帰って夕食を作り、博士と会話しながら夕食を摂り、そして午後10時。博士は先に寝室へと入って行った。なんとなくテレビで流れていたドラマを眺める。画面の中では男女が必死に愛を伝え合っている。こんな都合のいいラブストーリーが実際にあるわけがない。心の中で悪態をつきながらテレビを消し、ソファーから立ち上がり、シャワーを浴びようとした時。
 チャイムが鳴った。
 哀はシャワールームとは逆方向にある玄関に向かい、ドアを開けないままそっとつぶやく。

「誰?」
「……俺」

 声を聞き、チェーンを外してドアを開けると、黒いコートを羽織った新一が立っていた。彼がこの家で食事をしてから一週間ほど経っただろうか。

「どうしたの?」

 新一らしくない表情に、哀は思わず声をかけた。うつむき、瞼を伏せたまま、新一は突っ立ったままだ。外から入る風が哀のセーラー服のリボンと哀の前髪を揺らす。まだ雪はやんでいないようで、新一の髪の毛にはいくつかの水滴が光っている。嫌な予感がして、哀は手を伸ばして新一の額に触れた。
 冷たい指先に、熱が伝わる。

「工藤君、あなた熱があるんじゃない?」

 思わず新一の手首を掴むと、新一が弱々しく哀を見てきた。

「灰原」

 その瞳に光はなく、哀は固唾を飲んだ。

「俺、人を殺しそうになった」

 うなだれるように、新一は哀のセーラー襟に額を寄せた。哀は新一の手首を掴んだまま、空から舞い降りる雪を見つめる。
 真っ暗な闇の中に浮かぶ雪は、外灯に反射してキラキラと光っていた。まるで記憶の破片のようだと思った。
 初めて二人で組織に近付いた雪の夜、哀は黒ずくめの男に銃で撃たれた。元の姿に戻っていた時だった。その時もコナンが助けてくれた。
 誰も知らない、哀とコナンだけの記憶だ。