5.One


 哀が作った夕飯を、新一はうまいうまいと言いながら食べてくれた。いつもの二倍以上の量を作ったのに、残りはもうほとんどない。二十三歳男子の食欲を舐めてはいけない事を哀は知る。

「やっぱり日本食は最高だよな。俺、まともな食事したの久しぶり」
「ロスでは何を食べていたの…。というか、仕事で行ってたの?」
「そう、仕事。でも母親にも会って来たぜ」

 そして新一は両親である優作と有希子の近況を語り、博士も笑顔でそれに答えていた。新一の親らしい、相変わらずの破天荒な生活を送っているようだった。
 博士も久々の新一との食事を楽しんだらしく、満面の笑みのままシャワールームに入って行った。午後9時。リビングではニュースが流れている。夕食を終えた新一も再びリビングでパソコンを開き、難しそうな顔でキーボードを叩いている。洗い物を終えた哀は、そんな新一の表情をぼんやりと見つめていた。
 新一の両親も新一の記憶喪失について知っているが、深く介入するつもりはないらしい。ただ思い出した時には哀ちゃんよろしくね、と有希子からの言葉を預かっている。江戸川コナンだった頃の彼ならともかく、今の哀が新一を任されるようなことはないというのに。
 新一は今も必要以上に自分の事を語らない。それは単なる秘密主義ではなく、哀にも気を遣っているからだ。そんな彼でも切羽詰まったように哀の姉の事を尋ねて来た時があった。二年前の夏だった。

「灰原?」

 新一の声に、哀は我に返った。

「な、何…?」
「さっきからずっと俺の事見てるけど。何か言いたい事でもあったか?」

 ソファーに背を預けたまま座っている新一がパソコンの手を止めて、キッチンの前に立つ哀をじっと見てきて、哀は思わず視線を逸らした。

「べ、別に…。言いたい事なんてないわ」
「そう? ならいいけど」

 新一はそんな哀の様子をさして気にするような事もなく、再び仕事に没頭し始めた。哀はため息をついて、逃げるようにキッチンに入った。シャワールームからは博士の鼻歌が聞こえてくる。
 江戸川コナンと知り合って間もない頃、まだ彼を信じられなくて、姉が殺されてしまった事を彼にぶつけてしまった事がある。姉を殺したのは組織の人間で、コナンは何も悪くない。姉が自分との取引の為に行ったという銀行強盗すら、当初のコナンは組織が絡んでいる事に気付かなかったという。
 責めたてるようにしてコナンに縋って涙をこぼした。姉が殺された事を受け入れられなかった。世界にたった一人残されてしまった絶望感をどこにぶつけていいのかすら分からなかったのだ。
 今の新一は、あの頃の哀を知っているのだろうか。哀は今でも後悔している。
 キッチン台に置かれたコーヒーメーカーが音を立て始め、カフェインの香りが漂い始める。シャワーを終えたらしい博士がリビングに戻り、再び新一と会話をしているのを横目で見ながら、哀はカップを三つ取り出した。

「あ、哀君」

 コーヒーを注ごうとする哀に、博士はキッチンへと顔をのぞかせた。

「ワシは調べものがあるから、コーヒーだけもらって部屋に入ろうかの」
「分かったわ。部屋でこっそりコーヒーを甘くしたら駄目よ」

 哀の一言に、博士は目尻に皺を寄せて笑った。博士愛用のカップにコーヒーを多めに注ぎ、それを博士に渡す。そして新一の分と哀の分も注ぎ、それをリビングに持って行った。

「サンキュ、灰原。さっきからいい香りがしてるなって思ってたんだ」
「あなた、いつまでここにいるの? もう夜だし、これを飲んだらさっさと帰って」

 容赦ない哀の言葉に、新一はただ笑う。
 彼が子供の姿だった頃も、こうしてコーヒーを彼に淹れた。居候先の毛利家ではゆっくりコーヒーを飲む事もできないと愚痴を吐く彼を横目に、哀も一緒にコーヒーを飲んだ。そして少年探偵団の三人もよくこの家に遊びに来て、五人でゲームをしたり、テレビを見たり、宿題をしたり、夏休みの工作もここで作った。
 今では少年探偵団の三人と集まるような事もなくなっていた。元太と光彦は今でも仲良くしているようだが、歩美は歩美で同性の友達と過ごす事が多くなっていた。

「灰原、最近学校はどうだ?」
「どう…って。何も変わらないわよ」
「部活は? 結局入ってないままか?」
「ええ」

 核心から逃げるようにして、探り探り会話を重ねていく。結局、今日スーパーで蘭に会った事は言えずじまいだ。
 哀は新一の向かい合せのソファーに座り、高い位置にある窓を見上げる。今夜も冷え込みそうだ。

「部活でもしたら交友関係も広がるぜ。俺は中学の時はサッカー部だったんだ」

 仕事は中断とばかりにノートパソコンを閉じて、新一は中学生に戻ったようなあどけなさを残して笑うので、哀も思わずつられてしまった。

「知ってるわ」

 工藤新一の事を全て知っているなんて自惚れているわけではない。ただ彼の好きなもの、苦手な事、興味ある事、辛かった事。それなりに記憶しているつもりだった。
 哀の顔を見て、新一は目を伏せて微笑んだ。きっとまた何か会話を探している。
 あれ以来、新一は核心突いた言葉を吐かない。二人の距離を保って、哀を刺激しないように、言葉を選んでいる。
 本当は、他にも何かを思い出しているのかもしれない。記憶喪失のままの振りをしているだけで、本当は何もかもを取り戻しているのかもしれない。彼の本意は分からない。
 こんなに近くにいても、同じ空間で会話を重ねても、哀は新一を遠く感じた。新一が蘭を向いていた頃よりもずっと、遠くに感じた。